謹慎を命じられたエルバートは、自室に篭もったまま10日を過ごした。
変わり映えのない日々が続いた。
朝、起きてぼんやりしていると、侍女が朝食を運んでくる。
ゆっくり食事をしても時間は余る。
やることがないので窓の外を眺めていると、いつのまにか昼になっていて、また侍女がやって来る。
昼食を済ませた後も、やはりすることがないので、外の景色を眺める。
日が沈んでから侍女が再び姿を見せる。
夕食が終わればさっさと寝る。
また朝が来る。
毎日が繰り返しだ。
いつしか気怠さを感じるようになった。まともに身体を動かしていないせいだろう。
少し運動すれば解決するのだろうが、気は進まなかった。
能動的にそんなことをするくらいなら、多少の不快感は何でもなかった。
――――
なんとかしなければ。
デュークの焦りは日ごとに強くなった。
エルが職務に励んでいた時は、むしろ、心身を休めることに専念して欲しいと思っていたが、どうやらそれは間違いのようだった。
休んでは駄目だ。ラナを失ったエルは、走り続けていないと自分を保てない。
このまま放っておいたら、遠くないうちに廃人と化してしまう。ひょっとしたら、その前に自ら命を絶ってしまうかもしれない。
それを避けるためには、再び野望を抱いてもらうしかない。とにかく何らかの目標が必要だ。荒唐無稽な世界征服であろうと、この際は構わない。
エルをその気にさせるためにはどうするべきか、デュークは知っていた。
ラナに貰った秘策があった。
再びエルを立ち上がらせることだけに限って言えば、おそらく可能だろう。
ただ、さらに先のことについては、不透明だとしか言い様がない。窮地に追い込まれている現状からエルはどう動くのか。そこまでは読み通せない。
エルのことだから、かなりの無茶をやり始めるかもしれない。今度こそはと意気込み、どんな非道も厭わず、世界を敵に回すことも恐れず……。
僕は魔王を生み出そうとしているんじゃないか?
そうした不安が、この10日間、デュークを迷わせていた。
しかし限界だった。時間が経つほど状況は悪くなる。これ以上はエルを放っておけない。
やるしかない。
たとえ、魔王を生み出すことになるのだとしても。
――――
11日目の朝を迎えてエルバートは起き上がった。
今日も無為な時間が始まる。
別に嫌気が差したりはしなかった。すべてはどうでも良いことだった。
これで良かったのかもしれない、とエルバートは思う。
ラナの望み通り、俺は、あの場で無謀な突撃を仕掛けて死んだりしなかった。『世界を手に入れる男』なんてラナが言ったのは、俺とデューを生かすための方便だったわけで、実際に俺もデューも生き残った。
充分じゃないか。
ラナの本意は叶っている。本気で俺に世界を手に入れて欲しいと思っていたわけじゃない。
だから、もういい。
何千回目かの言い訳を心の中で呟きながら、エルバートはベッドから下りた。
朝食を終えて いくらか経った頃、扉を叩く音が聞こえた。
エルバートは窓から目を離して扉を見つめた。
昼食にはまだ時間がある。誰だか知らないが、放っておけば出直してくるだろう。
応対するのも億劫に感じたエルバートは無視を決め込んだ。
しかし、こちらの無反応にも構わず扉が開いた。
「失礼致します」
長い金髪を揺らしながらオリヴィアが入室する。
「顔色が優れませんわね。食事はちゃんと取っていますか?」
「お前か」
エルバートは呆れた。
よくもまあ俺の前に顔を出せたものだ。
「これからどうなさるおつもりですか?」
オリヴィアは遠慮のない視線を向けてくる。
「どうするもこうするもない。王の不興を買ってしまった俺には、もう何の権力もないんだ。王位は三大貴族のいずれかが継ぐことになるだろう。マーガレットになるのかもしれないな。あの子の母は、王の妹だから。主を乗り換えるのなら早くした方がいいぞ」
「そうですわね。ですが、エルバート様。もう王になる気はないのですか? 諦めてしまったのですか?」
「ラナが来ないんだ」
「……どういう意味です?」
「そのままの意味だよ。ラナが来ない。俺が仕事もせずにボーッとしているのに、ラナが文句を言いに来ない」
オリヴィアは納得した。エルバートが政務に励んでいた本当の理由に思い至ったのだった。
この男は、ラナの死を認めたくなかったのだ。怠けてもラナに文句を言われないという事実と向き合いたくなかった。だから怠けることなく仕事に没頭した……。
となると、覇道を貫く理由はもう無くなったということになる。つまりはそれが彼の答えか。
「ひとつ質問があるのですけれど」
返答を待たずにオリヴィアは続ける。
「今はともかく、なぜ昔からずっと仕事に身を入れなかったのですか? やろうと思えば何だってできたはずです。あなた様には力がある。面倒だからだなんて、本当にそんな理由だったとは思えませんわ」
「…………」
エルバートは下を向いたまま無言を保っていた。
オリヴィアが辛抱強く反応を待っていると、やがて彼は口を開いた。
「昔は毎日が楽しかったんだ」
「昔、と言いますと?」
「ラナとデューと3人で国中を遊び回っていた時のことだ」
「聞いたことがあります。ずいぶんと無茶をなさったとか」
「最初の頃はまだ幼くて、城の中で遊ぶだけでも満足していた。だけど、そのうち3人で外に飛び出したくなった」
「よく城を抜け出すことができましたね」
「大変だったが、あれはあれで面白かった。こっそり警備の目をすり抜けたり、偽情報で衛兵を騙したり、時には強行突破を図ったり、3人で相談してあの手この手を使った。まあ、今から考えると、子供の浅知恵だったがな。半ば黙認されていたのだろう。放任と言った方が正しいか」
「…………」
「外には未知の世界が広がっていた。街は、知らない物や知らない人ばかりだった。見るものどれもが新鮮だった。たくさんの子供たちに混ざってよく遊んだ。夢中で歩き回って、迷子になったりもした。色んな島にも行った。王都に帰れなくなって餓死しかけたこともあった。一番 危なかったのは、海賊と遭遇した時だった。あの時は本当に死んでいてもおかしくはなかった。俺とデューは競うようにしてラナを守った」
オリヴィアは黙って聞いていた。
「デューは13歳になると、軍艦に乗ることが多くなった。そのせいで、城を抜け出すこともほとんどなくなった。なんとなく、3人じゃないと外の世界に行く気にはなれなかった。2年後には俺も軍に身を置くようになった。ラナはいつも俺に付き添ってくれたが、3人で遊んでいた時のように無邪気に笑っていられなくなった。平民であるラナには、年を重ねるほど周囲の風当たりが強くなっていった」
「…………」
「デューともラナとも、もう昔のように遊び歩くことはできないのだと俺は悟った。その途端、何もかもどうでもよくなった」
「だから怠惰な生活を送るようになったのですか」
「遊びの邪魔をされて、ふて腐れていたんだよ、ようするに」
「ですが、反抗期はもう卒業したはずでしょう」
「今さら何ができると言うんだ」
「あなた様に不可能はありません。手段を選ばなければ、現状の打破さえ本当は可能なはずです。だからこそ彼女は、エルバート様にあのような言葉を残していったのではありませんか」
「ラナが? あれは、あそこで突撃なんて馬鹿な真似をさせないために言ったことだ。あいつが本気で世界を手に入れて欲しいと思っていたのなら、俺も実現してやりたい。でも本当はそうじゃない。俺とデューに死んで欲しくなかっただけなんだよ、ラナは」
「だとしても、成算がないからといって諦めることを許容する女ではありませんでした。ベリチュコフ軍に攻め込まれた際に彼女は抗戦を望んだでしょう。今のあなたを見ても、諦めろだなんて言うはずはありませんわ」
「いい加減なことを言うな。この状況でラナがどう言うかなんて、誰にも分からない。あいつはもう、俺には何も言ってくれないのだから」
「…………」
「とにかく疲れた。何もしたくない。ラナが励ましてくれるのなら、話は別だがな。でもそれは有り得ない。ラナは死んだんだ。現状について何かを言うことはないし、何かを思うこともない。死ぬってのはそういうことだろ?」
「ですが、エルバート様」
「もういい」
エルバートは手を振ってオリヴィアの退室を促した。
――――
ひとりになると、エルバートはまた窓の外を眺めた。
どうにも落ち着かなかった。
これまでなるべく意識しないようにしていたが、オリヴィアと話をしたせいで、ラナのことばかり考えてしまう。
しばらくしてデュークの訪問を受けた。
エルバートは椅子に座ったまま迎えた。
「今度はデューか……」
「騒がしくして悪いね。オリヴィア嬢には、僕が頼んで様子を見てきてもらったんだ」
「なに?」
「僕と話をする前にラナのことを君に思い返して欲しくて」
言いながらデュークは向かいの席に腰を下ろした。
「何がしたいんだよ、お前」
「決まってるだろう。エルを立ち直らせたい」
「放っておいてくれ。ここに閉じ篭もっていれば、解放の英雄なんていう馬鹿げた称賛を耳にすることもない。これで良いんだ」
「そういうわけにはいかない。ラナが居ない今、僕が君を叱咤しないと。ああ、いや、ラナに励ましてもらうことになるのかな、この場合。今ここでラナに声を掛けてもらえば立ち直れるだろう?」
「意味が分からん」
「ラナが最期に残した言葉を思い出してくれ」
「…………」
言われるまでもないことだった。
これまで何度となく反芻している。
『あなたは、世界を手に入れる男なんでしょう?』
「ラナは、なぜあんなことを言ったんだと思う? もちろん、無謀な突撃をさせないためではあったんだろうけど、別に他の言葉でも良かったんじゃない?」
「それは……」
「たとえば、『いつか私の仇を討って』とラナが言っていたとしても、君はあの場で同じ行動を取っていたはずだ。なぜなら、あそこでレイラは殺せないから。レイラを殺すには、有利な条件を揃えて再戦するしかない。だから、真っ向勝負になるあの状況では手を出せなかった。そうだろう?」
「……ああ」
「結果は今と同じで、エルも僕もまだ生存しているはずだ」
「だろうな」
「なのに、どうして? なぜラナは、レイラの打倒ではなく、世界の征服を望んだの? レイラ打倒の方が分かりやすいし、現実的で、時間も掛からない。一方で、世界中に点在する島々を残らず征服するには、多大な年月が必要となる。どれだけ順調に事が運ぼうと、寿命を迎えるまでに世界を手に入れられるとは限らない」
「そう、だな……」
肯定するしかなかった。
確かに、レイラひとりなら話は簡単だ。隣国に居るのだから、たった一度の海戦で殺せる可能性がある。
容易なことではないだろうし、何年も掛けて準備をする必要があるが、世界征服に比べれば些細なことに過ぎない。
それでもあえてラナがあんなことを言った理由はなんだ?
「本当なら僕よりもエルの方が早く気付いたはずだよ。今まで考えることから逃げていたせいで分からないだけだ。さあ、もう気付こう」
「…………」
どうやら、デューはすでに答えを得ているようだった。
教えるつもりはないらしい。
自分で見付けろ、ということか。
エルバートは息を吐いた。
あと少しで答えに辿り着きそうな予感はある。なのに、思考がまとまらない。
身体の調子が悪いせいだろうか。何もせずにいた毎日のせいで、頭の動きまで鈍くなってしまったのか……。
一時的なことだろうが、今の生活を続けていたら、いつかは回復を望めなくなるのだろう。
生まれ持った才能まで朽ち果てさせてしまったら、もう本当に最後だ。根こそぎ気力を失うに違いない。
でもきっと、その時は後悔すらできず、頭が鈍っていることにも気付かないのだろう。
デュー以外の誰にも必要とされなくなり、そのまま一生を終えることになる、か。
それはそれで構わないなんて俺が思うのは、その兆候ということだろうか。
客観的に考えれば最悪な人生だと認識できている分、まだ正常な思考力は残っているのだろうが。
まあ、俺みたいな奴が打ちのめされて、目標まで無くしたとなれば、こうなるのも必然かもしれない。
…………。
いや、待て。
目標?
目標を無くして、最悪な人生になる?
ということは……。
ああ、とエルバートは思った。
納得した。
すべて理解した。
分かってみれば簡単なことだった。
『あなたは、世界を手に入れる男なんでしょう?』
あの言葉には ふたつの意味が込められていたのだ。
ひとつめは、むろん俺とデューの生存だ。無駄に命を捨てないよう、戒めを施した。
ふたつめは、俺の生きる目標を提示すること。
いつ成し遂げられるか見当も付かない世界征服。それに対して、早ければ数年で完遂できる可能性のあるレイラ打倒。
目標を失えば何もできなくなる俺に示す道として相応しいのは、どちらか。
決まっている。
ラナが居ない今、俺は、何かに突き進んでいないとまともに生きられない。そのことをこの10日で実感した。
ところがラナには最初から分かっていたらしい。
だから最後にああいう言葉を残していったのだろう。
レイラを打倒した後に目標を失うくらいなら、さらにその先を目指して進み続けなさい。
ラナはそう言っていたのだ。
デュークは、エルバートの顔を見て頬を緩めた。
「気付いたみたいだね」
「あいつは、俺のことなんか何でもお見通しだったんだな」
「そうかもしれないね」
「10日間、俺は何度も思っていた。もう一度だけラナに声を掛けてもらえたら……。そう思っていたんだ。お前の言った通りだよ」
「実現したと言って良いんじゃないかな。ラナの言葉にあった真意は、あの場に居た君に向けられたものではなかった。打ちひしがれて呆然としたまま生きることになる未来の君に向けられたものだった。つまり、現在の君に対しての言葉だ。しかも、それに君が気付いたのは、たった今。現在の君に送られた言葉を、この場で初めて受け取ったことになる。今この瞬間にラナから声を掛けられたも同然じゃないか」
「ああ……」
エルバートは思った。
ここまでラナの想定通りだったのか。
俺は言葉の真意に気付かないまま突っ走り、挫折し、ラナの叱咤を求めた。
そこでようやくふたつめの意図を悟り、望みのままラナから言葉を貰えた。
あいつはそこまで考えていたというのか。
……有り得る話だ。
ラナは、俺自身よりも俺のことを理解していた。
おそらく、俺が馬鹿なことばかりしていたせいで、常に俺を見守っていなければならなかったからだろう。
救いがたいことに、俺は、ある程度そうなるよう狙っていた。
それだけが目的だったことはあまりなかったが、あえて馬鹿なことをしてラナの気を引いていたという面は少なからずあった。
目論見は成功し、主に文句ばかりだったろうが、ラナはいつも俺のことを考えるようになっていた、と思う。
計算以上の成功だった。死の寸前まで俺のことを考えていたのだから、これ以上の成功はない。
そのせいで最後まで世話を掛けてしまったが。
まあ、そんなことはラナも望むところだったのかもしれない。
俺以上に俺という人間を理解しているラナからすれば、俺の企みなんて見抜いていたはずで、つまりラナは、気付かない振りをして俺に構っていた。そういうことになる。
まったく……。
本当にしっかりしているよ、お前は。
エルバートは顔に違和感を覚え、手を伸ばした。
触ってみて、自分が笑っていることに初めて気付いた。
声に出してみる。はは。不自然な笑い声だった。自分でも分かる。ぎこちない。思えば、長いこと笑っていなかった。
「もう大丈夫だよね、エル」
「お前のおかげでな。けど、後悔するぞ。自分のしたことがどういう結果を招くのか、お前は分かっていない」
「いや分かってる。それでも君に立ち直って欲しかったんだ」
「…………」
エルバートは今後の展望を頭の中に描いた。
俺はこれから死ぬまでに百万人を殺すだろう。デュー以外のすべてを犠牲にして世界を手に入れる。
いや、厳密に言えば、デューですら例外ではないか。親友としての好意を最大限に利用させてもらうつもりなのだから。
その時デューは俺を許してくれるだろうか。
エルバートは言った。
「本国に帰れ」
「え?」
「お前には隣に居て欲しいと思っている。俺の覇道をすぐそばで見ていて欲しい。けど、まだそんな余裕はない。駒としてのお前が必要だ。本国に戻って、ストレンジャー公爵家を継ぐに相応しいだけの力を蓄えろ。もちろん、何がどうなろうと、俺にとってお前は特別な存在だ。それは変わらない」
嘘ではなかった。
ただし、心の中で付け加えてもいた。
お前にとっても、俺は特別な存在だろう? だから手を貸してもらう。どれほど不本意な形であろうと、関係なく。
――――
部屋の前で様子を窺っていたオリヴィアは、中から漏れてきたエルバートの笑い声を聞き、真剣な眼差しで扉を見つめた。
部屋を警備しているシーザー王の親衛隊ふたりは、オリヴィアと違い、戸惑った表情を露わにしている。
扉が開き、エルバートが姿を現すと、親衛隊ふたりは慌てて姿勢を正した。
エルバートは言った。
「ノア少将とベアトリス中佐を呼んでくれ」
「は、いえ、ですが……」
親衛隊ふたりは困惑した。
シーザー王の命令により、エルバートが部屋から出ないよう、彼らは見張りを命じられている。
エルバートには従えない立場である。
「父上に言われた通り、部屋からは出ない。だから、俺の代わりに呼んでこいと言っているんだ。そのくらいは融通を利かせても良いだろう?」
「でしたら、私が」
名乗りを挙げたのはオリヴィアだった。
「あなたたちは警備を続けていて頂戴」
親衛隊ふたりに言うと、オリヴィアは足早にその場を後にした。