水の星、世界を手に入れる男
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第一章 第二章 第三章
『水の星、世界を手に入れる男』
第30話 ラナ

 包囲を解かれたアレクセイ艦は、ベリチュコフ艦隊と合流した。
 その様子をエルバートとデュークは黙って見ていた。
 特に何かを期待していたわけではなく、他に何もする気が起きなかっただけなのだが、意外にもラナの姿を目にすることができた。
 ふたりは直後に息を呑んだ。

 ラナは、レイラに引き摺られながら現れた。身に纏っているのは薄汚れた布だけ。遠目にも分かるほど痩せ細っていた。
「聞こえている? エルバート。少し話せないかしら。お礼を言いたいのよ」
 通信魔術でレイラの声が送られてきた。抑揚のない口調だが、どこか冷笑が込められているようにも聞こえる。
 激昂しかけているデュークを手で制して、エルバートは通信魔術の使用を配下に指示した。

「どういうつもりだ、レイラ。人質は丁重に扱え。こっちはお前の要求に誠意を持って応じているだろうが」
 エルバートは相手に合わせてベリチュコフ語で応答した。

 通信には若干の時間差がある。
 数秒 経ってからレイラの声が返ってきた。
「自分の立場が分かっていないの?」
「何が言いたい?」

「私は艦隊と合流を果たした。同盟もすでに成立した。そして今、人質はまだ私の手の中にある」
「返す気はないということか」

「お前にとって大事なものをそう易々と返してはつまらないでしょう?」
「ふざけるな」
「口の利き方には気を付けるべきじゃないかしら。人質の命なんて、私の気分ひとつでどうとでもなるのよ」
「ふざけないでください」
「丁寧に言えば良いというわけでもないのだけど」

「どうすれば人質を返してもらえる?」
「お前にベリチュコフ西域を占領されて、私はとても悲しいわ。とりあえず、占領地を返して頂戴」
「分かった」
「……分かったの?」
「ああ。侵略は俺の本意じゃなかった。父上に命令されて、仕方なくそうしただけだ。だから返そう。迷惑を掛けて悪かったな」

「本気で言ってる?」
「もし嘘だと判明したら人質を殺せば良い。だが本当だと分かったら返してもらおうか」
「いいわ。こんな小娘なんて別に惜しくもないしね」
「…………」

「けれど、こうなると欲が出てくるわね。カーライル本国を私に捧げろと言ったら、お前はどうするのかしら?」
「捧げよう」
「へえ?」
 レイラの声色がわずかに変わった。
 あまりに微妙な変化だったので、呆れているのか感心しているのか、エルバートには分からなかった。

「ただし、本国引き渡しの正式調印だけは、ラナの返還と同時にだ」
「そんな条件で果たして私が応じるかしらね」
「応じるさ。カーライル王国が手に入れば、ラナを手元に置き続ける理由はなくなるだろ」
「解放する理由もないわね。殺すのも解放するのも私にとっては同じことなのだから」

「カーライル王国の乗っ取りを実現させる男の力が欲しくないのか? ラナを返すだけで手に入るんだぞ? 俺を使って世界を征服すると良い」
「お前にそんな力があるとでも?」
「すぐに分かるさ」
「それは良いとしても、お前が約束を守るかどうか、いまいち信じられないのよねぇ」

「そこは問題ない。ラナの身を確保できるのなら余計なことはしない」
「証明できるの?」
「俺はベリチュコフの占領地を無条件で譲る。普通はそんなことをしない。俺がラナを何よりも優先することの証明になるだろ」
「ふぅん……?」
 しばらく通信が途絶えた。

 エルバートはアレクセイ艦を見た。
 どうやらレイラはアレクセイと言葉を交わしているようだった。

 数分後にまた無感情な声が送られてきた。
「決めたわ、エルバート」
「聞かせてもらおうか」

「とても魅力的な提案だけれど、拒否させてもらうわ」
「…………。なぜだ?」
「理由は色々よ。たとえば、お前が憎いから嫌がらせをしてやりたい、とかね」

「アレクセイと話をさせて欲しいんだが」
「政治のできない私とは話をしたくないの? だけど残念。アレクも同じ意見よ」
「…………」
「というか、最初からこの女はここで殺すつもりだしね。とても残念なことだけど」
「なに?」
「お前に見えるようにこの場でラナの首を落としてあげる、と言っているの」

――――

 レイラは通信用の魔法陣から出た。
 アレクセイが満足そうに言う。
「ラナを殺せば、エルバートは怒りに任せて艦隊を突撃させてくるでしょう。向こうは4隻。こちらは3隻。劣勢ですが、レイラ様が指揮を執れば楽に殲滅できます。そのうえカーライル王国は、結んだばかりの同盟を一方的に破棄する形となり、国際的信用を失います。カーライル王国がレイラ様の物になる日も遠くはないかと」

「どうせなら、占領地を返還させてからの方がいいんじゃないかしら」
「エルバートがそれを完遂できる可能性は、良くて五分五分でしょう。彼が本気だとしても、配下が必ず反発しますから。であるならば、今この機を逃してまで待つことはありません。エルバートとベアトリスを確実に殺すことに重きを置くべきである、と私は考えます。彼らを放っておけばいずれ我らの障害になるかもしれません」
「そうね。まあ、そうかもしれないわね」

「…………」
 彼女らのやりとりを聞いてラナは震え上がった。
 自分はここで殺され、すぐ後にはエルとデューも殺される。恐ろしい話だった。

 これが現実であるとは信じたくもないが、受け入れるしかない。
 少なくとも私は死ぬ。レイラ女王の元で囚われの身となった時点から覚悟していたことではある。
 ただ、その先の展開は許容できなかった。エルとデューが殺されることだけは避けたい。

 勝手な言い分ではあるけれど、とラナは思う。
 ふたりが死ぬのなら私も死ぬ、運命を共にする、と何度か彼らに言ったことがあるが、先にまず自分が死ぬとなると、エルとデューだけでも生きて欲しいと思ってしまう。
 レイラ奇襲戦の直前に私だけを逃がそうとしていたエルの気持ちが今なら分かる。

「エルバートと話をさせてあげましょうか?」
「…………」
 レイラの提案はラナの予想外というわけではなかった。
 彼女の言葉に善意など微塵も含まれていないだろう。

 つまり―― 「助けを求めてエルバートの焦燥感を煽りなさい」
 そういうことだった。

 しかしこれはチャンスではないか、とラナは思った。
 直接 語り掛ければ、自分が殺された後にエルが激発するのを阻止できるかもしれない。

「レイラ様。どうせラナに喋らせるのなら、エルバートひとりでこの艦まで来るよう要求させる、というのはどうでしょうか。彼が従うかどうかは微妙なところですが、仮に拒否されても、多少は迷わせることができます。もし応じてきたら、カーライル艦隊の指揮権を引き継ぐのはデュークでしょうから、計画に支障はありません。ラナとエルバートを殺せば、デュークも我を失って無謀な突撃を仕掛けてくるでしょう。エルバートとデュークの指揮能力を考えれば、その方が好ましい。どうですか。言うだけ言ってみては?」
「いいわね」
 アレクセイの冷酷な申し出にレイラがあっさりと同意する。

 このふたりの危険性をラナは再認識した。
 なんとしてもエルを押し留めなければならない、と強く思う。
 ひとりで来るのは論外だが、全軍で来るのも駄目だ。数の上では4対3と優位であっても、レイラの指揮する艦隊と正面から戦って勝てるはずがない。

 レイラは言った。
「さあ、助けを呼びなさい。そうすれば、お前だけは生かしておいてあげる」
「…………」
 本気で言っているようには聞こえなかった。本音を隠す努力をしているようにも見えない。
 なのにレイラは、自分の意に反することをされるとは思っていないようだった。
 これまでレイラに虐げられてきた女たちは、まるきり嘘だと分かっていても、死にたくない一心で、似たような言葉に縋り付いてきたに違いない。
 だからこその自信だろう。

「もう何もしないでくれますか? 痛いことも、苦しいことも」
 ラナは震えながら言った。
 レイラに従う気はないが、死ぬことが恐ろしいのは事実であり、ほとんど演技の必要がなかった。

「ええ。お前は無事 解放されるわ。カーライル王国のことなら気にすることはないのよ。どうせすぐに私が滅ぼすから。お前は故郷に帰って平民としての人生を全うしなさい。それが本来の生き方であることだしね。貧しい生活も、今となっては恋しいはずよ。会いたいでしょう、家族に」
「は、はい」
 我慢しないと涙が溢れてしまいそうだった。
 どれほど魅力的な話だろうと、嘘であるからには考慮の余地はない。

 嘘で良かった、とラナは思う。
 もし、レイラが約束を遵守する女だったとしても、やはり彼女の言葉に従うことはなかっただろうが、迷うくらいのことはあったかもしれない。
 エルとデューを見捨てた際のメリットとデメリットの検討なんて、たとえ一瞬であってもしたくはない。
 そうならなくて、本当に良かった。

「死にたくないのなら、私の言う通りにすることね」
「分かりました……」
 頷くと、ラナは魔法陣の中まで水兵に引っ張られていった。

 跪かされ、左右に陣取った水兵に腕を取られ、動けなくなる。
 そこで初めてラナはエルバート艦隊に目を向けた。
 まず先頭の艦を見る。
 距離はあるものの、甲板に立っている人たちの区別が付かないほどではない。
 すぐにエルとデューが見付かった。
 ふたりは、今にも泣きそうな顔をしていた。

「ただ単に助けを求めれば良いというものではない。まず――」
 アレクセイが、いくつかの指示を出してきた。
 どうやってエルにショックを与えるか、彼なりに考えているようで、およそ的確な指示だった。
 従ってしまえば、おそらくアレクセイの望む結果になるだろう。

 ラナは適当に頷きながら聞き流した。
 今は他に考えることがあった。どのようにしてエルを諫めるか。どうすればエルとデューを死なせずに済むのか。
 考えがまとまってきたところで、ちょうど話し終えたアレクセイが離れていった。

 エルに語るべき言葉は決まった。
 『助けて』ではない。『来ないで』でもない。
 そんなことを言えば逆効果だろう。
 エルに効果的な言葉は理解しているつもりだった。

 ラナは心の中で強く自分に言い聞かせた。
 大丈夫。死ぬ寸前の言葉なんだから、エルは重く受け止めてくれる。私さえしっかりしていれば真意はきっと伝わる。

 だけど、本当に良いのだろうか。
 どうしても迷ってしまう。
 アレクセイの指示に従う気がないことが露呈したら、おそらくその瞬間に殺されるだろう。
 情けないが、それが恐い。

 死への恐怖は理屈ではなかった。どれだけ諦観しようとしても、生き残りたいという欲求が腹の底から突き上がってくる。死を受け入れないよう、本能が訴えているのだ。
 レイラの言う通りにすれば、ひょっとしたら本当に助けてもらえるのではないか。
 処刑寸前になったほとんどの者が抱くであろう希望的観測に、芯から毒されそうになる。

「早くしてくれないかしら」
 レイラに声を掛けられ、ラナは反射的にそちらを見ようとした。
 直後に気力を振り絞って視線を戻す。
 レイラに言うべきことは何もない。話すべき相手は向こうの艦隊に居る。

 もう一度エルの顔を見た途端、ラナは口を開いた。
 意識するよりも先に言葉が出ようとしていた。
 抑える気はなかった。
 発しようとしている言葉と、事前に準備していた言葉は、全く同じだった。

 ラナは言った。
「なんて顔をしているの、エル。しっかりしなさいよ」
 喋っている途中、間近に居るアレクセイが剣を振り上げた。
 ラナは懸命に言葉を繋いだ。

「あんたは、世界を手に入れる男なんでしょう?」
 視線もエルから離さない。
 生きていられる残りの一瞬を無駄にはしたくなかった。
 ラナは、最後の瞬間までエルの顔を見つめた。
 離れた位置からしか見られないのは不本意だった。
 けれど……。

 アレクセイが剣を振り下ろすと、ラナの頭部は胴体から切り離され、床板に落下した。
 切断面から血飛沫が上がり、両隣でラナの腕を押さえている水兵に降り掛かった。

――――

 どう見ても絶命したのは明らかだったが、あまりにも唐突の出来事であるため、エルバートもデュークも、事実を事実として頭の中で処理することができなかった。

 一方で、聴覚は正常に働いていた。認識能力に問題が起きていても、言葉を聞き取ることはできた。
 それがふたりを更なる混乱に陥れた。
 首を寸断されて絶命したはずのラナの声が耳に届いたのだ。

「なんて顔をしているの、エル。しっかりしなさいよ。あんたは、世界を手に入れる男なんでしょう?」
 通信魔術により時間差で声が送られてきたに過ぎないのだが、しかし咄嗟には判断できない。
 エルバートとデュークは、自分の目でラナの死を確認しているにもかかわらず、今この瞬間も彼女が生きているかのような錯覚に陥った。

「最後まで可愛くない女だったわね。まあ、もう終わったことなのだから、忘れることにするわ。お前たちも、そうしたらどう?」
 レイラの声にふたりは我に返った。

 女王は喋り続けている。
「私に対する感謝の言葉はないのかしら? この女は、拷問されている最中もお前たちの名前を呟いていたのよ。平民の分際で王侯貴族にすがり付くような身の程知らずを、お前たちの代わりに斬り捨ててあげたというわけ。一言くらいはお礼を言ってもらいたいところね」

「黙れ! 絶対に殺してやる! 全軍、突撃だ! レイラを殺せ!」
 叫んだのはデュークだった。
 エルバートは沈黙を守っている。
 側近たちは、困惑した様子でふたりを見ていた。

「どうしたんだ、エル! 早く命令を! あいつを殺すんだ! 生きて国に帰らせては駄目だ! ここで殺すんだ!」
「…………」
 エルバートは尚も黙っていた。
 頭の中ではラナの言葉を反芻していた。
 俺が、世界を手に入れる男? この状況でなぜそんな言葉が?  思考に耽ることで現実逃避をしているのだった。

 エルバートから反応を得られないと見たデュークは側近に向かって言った。
「総司令官は自失状態だ! 代わりに僕が指揮を執る! 全艦、今すぐ突撃しろ! あいつらを皆殺しにするんだ!」

 側近たちは互いに顔を見合わせた。
 すでにレイラは艦隊との合流を果たしている。軍神レイラの戻った艦隊に突撃などしても全滅するだけであることは分かり切っていた。

「待て」
 エルバートが声を上げた。
 思考の末に答えを見付けた彼は、私情を排してレイラを見据えた。

「俺が自暴自棄になって攻撃を仕掛けると思ったのか、レイラ。いや、提案したのはアレクセイか」
 返事は来ない。構わず続ける。
「失敗すると分かってる突撃なんてしても、死ぬだけだ。できねえよ、そんなこと。だいたい、成立したばかりとはいえ、同盟国の艦隊を攻撃するわけにはいかないだろう。俺たちはこのまま帰還する」
 やはり返事はない。すでに通信魔術を解除しているのかもしれない。

 まあ良い、とエルバートは思った。
 半ば分かっていたことだ。
 言葉の数々には、自分に言い聞かせる狙いもあった。目的を口にするだけでもずいぶんと迷いが晴れた。

 俺は世界を手に入れる。必ず。そのために生きる。ここで死ぬことはできない。だから突撃はできない。
 そういうことだろう、ラナ。俺とデューをここで死なせないために、あんなことを言ったんだろう。
 だったら、俺は死なない。世界を手に入れてみせるさ。

「なぜだ、エル! どうして仇を討とうとしないんだ!? ラナを殺した奴らがすぐそこに居るんだぞ! 早く殺さないと逃げられる!」
「この場でレイラを殺すのは無理だ。攻撃したらこっちが全滅する」
「今すぐ殺すんだ! 殺すんだよ! 早く!」

「撤退だ、デュー」
 エルバートの声は落ち着き払っていた。
 デュークは、虚を突かれたように口の動きを止めた。

 エルバートはもう一度 静かに言った。
「撤退だ」

――――

 後退していくカーライル軍をレイラは目で追っていた。

「私の計算違いでした。申し訳ありません」
 アレクセイは恐縮して頭を下げた。
 自分の提案が逆効果になってしまったからには、極刑をも覚悟しなければならない。
 傲岸なアレクセイも冷や汗を掻かざるを得なかった。

「仕方ないわね」
 レイラは言った。いつも通りの平坦な声だった。
「向こうが同盟を破ってこなかった以上、カーライル王国の征服は諦めるしかないわ。当分はね。予定通り、戦力を再配備して東方に勢力を伸ばすことにしましょうか」
「はい」
 アレクセイは平伏したまま返事をした。

「頭を上げなさい、アレク」
「は……」
「一度くらいの失敗で見限るほど私は間抜けではないわ。失敗はこれから取り返して頂戴。あなたは今後の戦略構想に必要な人材なの。次にまた大きな失敗をしたら、その時は死んでもらうけれど」
「承知致しました」
 アレクセイは驚きを隠せなかった。

 寛容からは程遠い存在だったはずの女王が、失態に対して怒りもせずに見逃した。
 これまでならば考えられないことだ。
 やはり、カーライル軍の捕虜となって痛い目に遭ったことにより、考え方に変化が出てきたらしい。
 戦争は、戦場だけでするものではない。それを理解し始めているのだ。

 大変 結構なことだ、とアレクセイは思う。
 戦場の外まで視野が広がれば、戦場の中のことであっても、今までとは違った見方ができるようになる。
 軍神レイラが更なる成長を遂げた時、どうなるか。
 ひとりの軍人としてアレクセイは純粋に興味をそそられた。

 レイラならば、後世に名が轟くほどの覇王になれるかもしれない。
 少なくとも資質はある。
 これから彼女がどのような進歩を遂げるか、ある程度の干渉を自分は行える。
 そのことを意識するとアレクセイは身震いした。


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