エルバート艦隊の苦しい状況はアナスタシヤも把握していた。
ここを突かない手はない。懸念もあるが、迷っていては機を逸してしまう。
アナスタシヤは、艦隊の陣形を横に広げるよう、両端の艦に命令を出した。
しかし、それが実行されるよりも早くカーライル軍に動きがあった。
海戦当初に中央艦隊の前衛を守り、半数を戦闘不能に追い込まれたのち、右と左に分かれて後退していたカーティス艦隊2隻が、それぞれ前進して、アナスタシヤ艦隊に左右両面から砲撃を加え始めたのである。
アナスタシヤは歯噛みした。
やはりそう仕掛けてきたわね、エルバート。
予想していたことではあったが、こうなるとこちらも苦しくなる。
むろん、カーティス艦隊から側面砲撃を受けても、アナスタシヤ艦隊のすべてが足を鈍らせるわけではない。
戦局全体から見れば、一時しのぎに過ぎない。
だが、それこそが問題なのだ。
包囲網が完成しつつある状況下では、わずかでも時間を稼がれることが命取りになりかねない。
エルバート艦隊と砲撃戦を繰り広げながら、アナスタシヤは、自分の後背に回り込もうとしているデューク艦隊にも意識を向けていた。
デューク艦隊のうち1隻は、並外れた速度で先行している。海戦序盤にいきなり我が方の艦に斬り込んだあの艦と、同一の艦だろうか。
おそらくそうだろうな、とアナスタシヤは思った。直感が告げていた。参謀に確認するまでもない。
あの艦さえ居なければ、戦況は全く違ったものになっていたはず……。
そこまで考えてから、首を横に振る。
後ろ向きなことを考えていても仕方がない。目の前の艦隊を突破しなければ、ベリチュコフ王国に未来はないのだ。
指揮を続けながらアナスタシヤは中央突破の機を窺った。
1隻だけで良い。たった1隻で良いから突破を果たせば、それだけでエルバート艦隊の陣形は崩壊し、包囲網も成立しなくなる。
すなわちベリチュコフ軍の勝ちだ。
ほんのわずかな隙さえあれば……。
――――
「三番艦、そこで止まれ! そのまま砲撃に専念しろ! 次は二番艦に指示を送る! 俺の合図を待て! いつでも対応できるよう準備しとけよ!」
エルバートはぎりぎりまで各艦への後退命令を控えてきたが、ここでノアが口を出してきた。
「二番艦は今すぐ後退させるべきではありませんか?」
「いや、駄目だ。これ以上の後退はまずい。包囲網の形成に支障が出る」
「ですが、これでは突破されます」
「もう少しなんだ、ノア。ここが堪えどころだ」
――――
「今よ!」
アナスタシヤは力を込めて言った。
「敵軍は後退を躊躇しているわ! 今なら抜ける! 左前列の艦4隻は全速で前に出なさい! 中央の6隻は援護!」
しかし艦隊の動きは鈍かった。
その理由に思い至ったアナスタシヤは形相を険しくした。
まだ包囲網が完成したわけではない。
だが、敵軍の意図は、今や誰が見ても明らかとなっており、アナスタシヤ艦隊の将兵は、包囲殲滅の危機に恐れを成しているのだった。
通信兵が次々と声を上げる。
「四番艦と十番艦が、全軍の総退却を提案しています!」
「アナスタシヤ様! 八番艦からは通信対話の要求が!」
「転進の準備はすでに整っているとの報告が五番艦から寄せられています!」
彼らの声色から、撤退に反対している者はひとりも居ないことが読み取れた。
アナスタシヤは全艦に通信を送った。
「すでに敵艦隊が後方に迫っているわ! 後退は不可能! 逃げ道は正面にしかないのよ! 死にたくなければ前面の艦隊を突破しなさい!」
これで事態が好転するとは思えなかったが、他にどうすれば良いか分からなかった。
配下が恐慌に陥ることさえなければ、中央突破を果たして、分断した敵艦隊を壊滅させることができた可能性は、充分にあっただろう。
だがこうなった以上、勝敗の帰趨は覆りようがない。
――――
ベリチュコフ軍の動揺は、エルバートからしても予想外だった。
決死の突撃が行われるのではないか、と警戒していたくらいである。
「たとえ大軍であっても、不利な状況に置かれると脆いものだな」
感慨深げに言うエルバートにノアは冷たく応じる。
「まだ終わったわけではありません。気を抜かないでください」
「いや、もう終局だ」
デューク艦隊とプリシア艦隊が敵軍の背後を完全に遮断するのをエルバートの目は的確に捉えていた。
――――
完全な包囲下に置かれた上で、四方から砲撃を受け始めると、アナスタシヤ艦隊の混乱は深まりを見せた。
アナスタシヤの命令をまともに履行する艦は皆無となり、各々が手近な敵艦へ勝手に砲撃を行う始末である。
アナスタシヤは敵陣突破の指示を出し続けていたが、もはやどうにもならないことは、味方の誰よりも理解していた。
「…………」
嫌だな、とアナスタシヤは思った。
戦場全体まで視野が広がったせいで、この先の展開を隅々まで予見できてしまう。
けれど、分かっていても何もできない。
これほど悔しいことがあるだろうか。
ここで天位魔法を使えれば、と詮無きことを考えてしまう。
ベリチュコフ王家に伝わる天位魔法は、人間から恐怖と痛みを奪い、戦闘兵器に仕立て上げることができる。
その影響下にある艦隊は、『不死艦隊』あるいは『無敵艦隊』と言われ恐れられているが、決して大袈裟な呼称ではない。
この状況で更なる一手を打てることが、どれほど大きなことか、アナスタシヤは肌で感じていた。
あの天位魔法があったなら、エルバート艦隊を突破することなど容易いだろう。
いくら集中砲火を浴びようとも、兵たちは命の危険を省みることなく、命令に従って前へ進み続けるのだから。
陸戦も海戦も、基本的には士気の削り合いだ。
兵たちが『これは負ける』と思った時が戦線の崩れる時であり、実際に勝敗が決まる瞬間となる。
どのようにして相手の兵に『これは負ける』と思わせるか。戦術の目的はすべてここにあると言っても良い。
その意味でも、ベリチュコフ王家に受け継がれている天位魔法は極めて有用だ。
どれほどの被害が出ようと、命令がある限り艦隊は戦いを続けようとする。士気を失わない。四肢を失った兵でさえ、這ってでも戦おうとする。
まさに不死。まさに無敵。
だが、レイラが存命である以上、今のアナスタシヤに天位魔法の所有権はない。
もはや逆転の目はなく、甘んじて敗北を受け入れるしかない。
カーライル軍の砲撃は、さほど激しいものではなかった。
並の司令官であれば、敵が疲労している、と解釈したかもしれない。
実際は違う。エルバートが意図したことなのだ。アナスタシヤにはそれが読み通せる。
ここまで鮮やかな包囲網を作り上げたエルバートが、この期に及んで生温い砲撃で満足するわけがない。徹底的な攻撃を即座に行わない理由が必ずある。
包囲され混乱している我が艦隊に対して、この恐るべき敵は、ただ攻撃を加えるだけでなく、さらなる痛撃を与えようと画策しているのだ。
現時点での砲撃が比較的緩やかなのは、そのせいに違いない。
彼が積極的に策を弄するタイプであることはすでに判明している。ゆえに、おのずと答えは導かれる。
一斉砲撃。おそらく、エルバートの狙いはそこにある。
今でさえ命令もろくに通らない状態にある我が艦隊は、その時こそ戦意崩壊し、手前勝手な各個の反撃すらも止まってしまい、軍としての機能を失うだろう。
自身の予測にアナスタシヤはほとんど疑いを持たなかった。
しかし、一斉砲撃か。
もしかしたら……。
アナスタシヤはひとつの可能性に思い至った。
エルバートは、海戦序盤の初撃として一斉砲撃を行った。これにより我が軍は出鼻を挫かれたが、その効果は知れたものでしかなかった。だからあたしも小細工だと断じ、あまり気にしなかった。
けれど、今ここで行えば、我が艦隊をより確実に葬ることができる。その際に、一斉砲撃のタイミングを揃えれば揃えるほど効果が大きくなることは、言うまでもない。
つまり、最初の一斉砲撃は、この瞬間のための実戦演習だったのではないか。
攻撃開始と同時の斉射より、砲撃戦の最中にタイミングを合わせての斉射の方が、当然ながら難しい。
だからこそ実戦演習を行いたかった……。
もしそうだとしたら、最初から最後までエルバートの掌の上で転がされていたということになるのだろうか?
初めから勝敗は決まっていた?
……いや、さすがにそんなことはないだろう。
アナスタシヤは自らの発想を否定した。
エルバートが初撃にどのような意図を込めていたとしても、現在の戦局は、紙一重の結果により成り立っている。これは紛れもない事実。
1隻だけでもエルバート艦隊を突破できていれば、状況の優劣は全く逆になっていたはずだ。
そしてそれは、実際に有り得ることだった。
とはいえ、この海戦を他人がどう評価するかは また別問題だ。少なくとも、自分の言い分が顧みられることを期待すべきではない。
あたしの名前は歴史に残るだろう。大軍を率いていながら少数に包囲された間抜けとして……。
それは受け入れるしかなさそうだ。
もっとも、あたしが死んだ後のことだけれど。
生きている間にやれることはもう何もなさそうだった。
カーライル軍の一斉砲撃を待つしかない。
アナスタシヤは開き直って椅子に腰を下ろし、無言で敵艦隊を眺めた。
周囲の側近たちは一様に言葉を失っているようだった。
静かで良い、とアナスタシヤは思った。
まあ、静かなのは、司令部を置いている艦尾だけなのだけど。
甲板の兵たちは、必死に反撃を行ったり、悲鳴を上げたり、嘆いたり、大騒ぎをしている。
アナスタシヤの視線はカーライル軍の旗艦に向けられていた。
エルバート……。お前は今、どんな顔をしているの? やっぱり、勝ち誇っているのかしら?
悔しいけれど、あたしがそれを邪魔することはできないわ。負けを、認めてあげる。