水の星、世界を手に入れる男
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第一章 第二章 第三章
『水の星、世界を手に入れる男』
第15話 拷問

 再びやってきたラナを見て、衛兵は露骨に嫌そうな顔をしたが、デュークに目を移すと背筋を伸ばした。
「入っても良いか?」
 デュークの言葉に、衛兵ふたりは慌てて道を譲った。

 デュークが扉の取っ手に触れると、それが合図であったかのように中から悲鳴が聞こえてきた。
 扉越しでもそれと分かるほどの音量だった。

 ラナは愕然とした。
 中止命令が出された直後だというのにオリヴィアはさっそく無視したらしい。
 いずれそうなるとしても今日は大丈夫だろうと思っていたが、完全に甘かったようだ。

 デュークの手によって扉が開かれた途端、聴覚が狂いそうなほど巨大な悲鳴がラナの耳を襲った。
 これが現実のことなのか、ラナは本気で疑った。
 音の衝撃で平衡感覚を失い掛けたのは初めてだった。戦場で砲撃を間近に受けた時の轟音でさえ、ここまでの影響はなかった。
 絶叫が耳の奥で直接 響き渡っているような気がした。

 顔を顰めているデュークを横目に見て、この常軌を逸した悲鳴が聞こえているのは自分だけではないことを、ラナはようやく認めた。
 人間の口から出てきた声だとはとても思えなかったが、幻聴ではない以上、本物の悲鳴であると認めるしかない。

 レイラは長椅子に座らされていた。背もたれが後ろに倒されているため、仰向けに近い。
 手首は肘掛けに、足首は椅子の脚に、それぞれ縄で縛り付けられている。額と顎には革ベルトが巻き付いており、顔面が上向きに固定されている。
 数カ国を思うがままに侵略してきた女王が、今は、椅子から立ち上がることすらできない状態に陥っていた。

 衣服の着用も許されておらず、生まれたままの姿を露わにしているが、本人は気にしていないに違いない。
 ラナはそう確信した。表情を見れば分かる。
 レイラの顔は大きく歪み、涙と涎と鼻水にまみれている。他人の目を少しでも気にしていたら、このような醜態は晒せない。
 激痛の前では自尊心など些細なことでしかないのだ。

 オリヴィアの傍らに立っている男は、レイラの口内に棒状の器具を差し込み、熱心に弄くっていた。
 その光景を見てラナは直感した。歯の神経を傷付けているのだ。尋常ではない悲鳴もそれで説明が付く。

 およそ人間のすることとは思えなかった。
 レイラに与えられている痛みを想像するだけで息が苦しくなる。

 いかなる戦場でも冷静沈着だったであろう軍神が、喉を涸らし尽くしてもなお大声を上げている。
 どこまで意識した上でそうしているのかは分からないが、かすれきった声を力尽くで極限の音量まで引き上げているようだった。

 レイラが全力を振り絞っているのは喉だけではなかった。
 彼女を縛っている縄が激しく軋んでいる。
 引き千切るのは不可能だ。そんなことは本人も分かっているはず。それでも必死に手足を引き寄せようとする。
 手首と足首は縄で擦り切れて血塗れだった。

 レイラは椅子から尻を浮かせていた。
 全身を暴れさせたいところだろうが、仰向けに近い状態で手足と顔を固定されている以上、彼女にできるのは、背中を反り返らせることだけなのだ。

 唐突に悲鳴が途切れた。レイラの尻が椅子に落ちる。
 その直後、絶叫が再開され、腰もまた跳ね上がった。そして、反り返りの状態が維持された。
 まるで椅子から弾かれたかのようだった。

 今のはまさか……。
 わずかに間を置いてラナは理解した。
 レイラの身体は条件反射で仰け反っている。激痛に曝されている間、ずっとその状態で硬直してしまうようだ。
 では、なぜ一瞬だけとはいえ、尻が下がったのか。
 それは恐ろしい事実だった。

 失神したのだ。
 だから、身体を反り返らせようとする力が消えて、尻が下がった。
 しかし神経への刺激は止まらない。嫌でも意識が覚醒する。激痛に曝される。再び身体が反り返る……。

 ラナは思わず唾を飲み込んだ。
 どれほど悲鳴が響いていようと、自分の喉が鳴る音は強く耳に残った。

 拷問を実行している男は、レイラの反応に全く構わず手を動かし続けていた。レイラに意識があろうがなかろうが、特に関心はないらしい。
 彼の顔にラナは見覚えがあった。
 ノア中佐。エルバートに目を掛けられ、諜報部隊の副隊長に抜擢された男。
 私的な会話を交わしたことはないが、同じ第二王子に仕える者同士、互いに見知っている。

 この瞬間までノアに対して特別な印象を持っていなかったラナだが、今は恐怖感を持って彼を見ていた。
 拷問の真っ最中だというのに、ノアは何の気負いもせず、書類仕事でもこなしているかのように淡々と手を動かしている。
 レイラの悲鳴が全く聞こえていないのではないかと思えるほど彼は平静だった。
 普段と何も変わらないその表情をラナは恐ろしく感じた。

 ノアの隣で拷問を見物している伯爵令嬢も異様だった。
 立ち位置の関係でラナには横顔しか見えなかったが、オリヴィアの表情を窺うことはできた。

 オリヴィアの顔からは血の気が引いていた。
 ノアと違い、彼女は、他人の痛みに共感することができるのだ。
 しかしどうやら、それが同情心に繋がってはいないようだった。

 オリヴィアは拷問に震撼しながらも、口の端を吊り上げていた。レイラを見下ろすその目は、興味深そうでもあり、愉快そうでもある。
 拷問されている側がどう感じているかを想像できているというのに、止めるつもりは全くないらしい。
 オリヴィアもまた、ノアと同等以上に何かが欠けていた。

 デュークとラナが立ち尽くしている間、レイラの身体は何度も沈み、何度も跳ね上がった。
 そのたびに彼女の全身から脂汗が垂れ落ちる。
 体中に浮かび上がっている多量の汗と、椅子に広がっている大きな染みが、拷問の激しさを物語っていた。

「おや?」
 オリヴィアは入室者に気付くと、ノアに合図した。

 拷問の手が緩んだ途端、レイラの絶叫と仰け反りが、あっさりと止まった。
 部屋に響き渡っていた悲鳴が途絶え、ラナは耳に違和感を覚えた。
 一瞬遅れて強烈な耳鳴りに襲われる。
 おそらく、室内に居る全員が感じていることだろう。唯一、レイラだけはそれどころではなく、聴覚の一時的異常に気付いていないかもしれないが……。
 レイラは、一瞬の硬直の後、全力疾走をした直後のように荒い呼吸を繰り返した。

――――

「もうやめてください!」
 それまで入り口で立ち尽くしていたラナは、意を決して室内に踏み入った。

「止めに来たというわけ?」
 オリヴィアが目を細めた。
「中止命令が出ているはずです!」
「だから?」
「…………」

「あなたの思い通りになるなんて御免なのよねぇ」
「何が言いたいんですか」
「中止命令が出たのは、どうせ、あなたが余計なことをしたからでしょう。私の邪魔をするために、ストレンジャー家のご子息まで連れ出して。気に入らないわね。平民の分際で上流貴族を動かすだなんて、おこがましいにも程があるわ」

「このような残虐極まる行いは許されるべきではありません。拷問を見過ごすくらいなら、手段を選ばずに止めます」
「言うじゃない」
 オリヴィアはラナに近付いた。その手には鞭が握られている。

 デュークが慌てて立ち塞がった。
「そのくらいにしてくれ。尋問は終わりだ。オリヴィア嬢はここから出て行ってくれ」
「いくらデューク様の言うことでも、承服しかねますわ」
「中止命令を無視するというのか?」
「そんなもの、事後承諾でなんとでもなるでしょう。尋問で得られる重要な情報に比べれば、大したことではありません」
「あなたという人は……」

 デュークは呆れ返ったが、気を取り直し、切り口を変えた。
「オリヴィア嬢は功績が欲しいのだろう? つまり出世さえできれば文句はないと」
「ええ、まあ」
「だったら、今以上の役職をあなたに与えるよう、僕からエルに口添えしておこう。だからこの場は引いてくれないか」
「魅力的な提案ですわね」
「もちろん、ノア中佐もだ」
「別にそっちはどうでも良いのですけれど」

「良くはありません、オリヴィア様」
 ノアは口を挟むと、デュークに顔を向けた。
「私はオリヴィア様に手を貸しているだけですが、わざわざ出向いたからには結果を出したいところです。とはいえ、デューク少将がどうしてもと言うのなら、仕方ありませんね」
 言いながらレイラから離れる。

 オリヴィアは苦笑した。
「ノア中佐の言う通りかもしれませんわね。ここはデューク様のためを思って引くとしましょうか」

「…………」
 態度とは裏腹に満足そうだ、とラナは思った。
 栄転を約束されただけでなく、ストレンジャー公爵家の跡取り息子に借りを作れたのだから、当然なのかもしれない。
 しかし、これでは、レイラの苦痛に何の意味があったのか分からない。

 オリヴィアなら、ここまで無茶なことをしなくても、出世なんて後々いくらでもできるはず。
 なのに、その道をわずかに短縮させたいという理由だけで、エルの命令に逆らってまで拷問を再開したというのだろうか。
 だとしたら、恐るべき野心だ。

 エルの機嫌を損ねて彼に背を向けられる可能性を少しでも考慮に入れていれば、拷問の再開はとてもできなかっただろう。
 最優先事項は功績を挙げることで、そこに伴うリスクは才覚で乗り越える自信がある。そういうことか。
 あるいは、とにかく頂上目掛けて全力で走り、途中で躓いた時は自分に才覚がなかったと諦める。そう覚悟しているのか。

 分からない。オリヴィアの心中がラナにはほとんど分からない。
 だけど、ひとつだけ確信できる。きっと、このような無茶をオリヴィアは今後も繰り返す。他人がどのような目に遭うのかを気にしないどころか、自分の身を死地に晒すことさえ厭わずに……。

 今回はたまたま女王レイラに矛先が向かったが、次はエルに向くかもしれないし、デューに向くかもしれない。
 危険すぎる。
 たとえ周りにどう思われようとも、いつか取り返しのつかないことをされる前に、オリヴィアだけは排除しておくべきではないか。

 ラナは無意識のうちにオリヴィアの挙動を観察していた。
 ふと目が合ってしまい、慌てて視線を逸らす。
 その後の数秒間、纏わり付くような視線をラナは感じた。

――――

 オリヴィアとノアが部屋から出て行くと、ラナはレイラの拘束を解き始めた。

「僕はどうすればいい?」
 全裸の女王を前にしてデュークは居心地悪そうにしていた。

「あ、悪いんだけど、外に出てくれる? やっぱり男の人の目は、ね。エルのとこに戻ってくれてもいいわ。いえ、そうして頂戴。今のエルならデューの報告をちゃんと聞いてくれるはずだから」
「そうなの?」
「今はね。先のことは分からないけれど」
「そっか」
 デューはなにやら悟ったようだったが、ラナは何も言わなかった。

「じゃあ執務室に戻るよ。男手が必要になったら衛兵を呼んでくれ。ラナの言うことを聞くように言っておくから。僕かエルを呼んでくれてもいいし」
「うん。分かった。ありがと」

――――

 ひとりになったラナは、涙や涎にまみれた女王レイラの顔を丁寧に拭いていった。
 レイラは無表情でラナを見ていた。

 女王の身体を綺麗にしているうちに、部屋の外から騒がしい音が聞こえてきた。
 揉め事でも起こっているのだろうか。
 ラナは入り口に目をやった。

 扉が強引に開かれ、大柄の男が入ってきた。
 元ベリチュコフ貴族のアレクセイ男爵だった。
 体格に相応しい腕力を備えているようで、すがり付いてでも押し止めようとしている衛兵ふたりを引き摺りながら歩いている。
 部屋の中央まで来たアレクセイは、無言でラナを見下ろした。
 ラナは身体を強張らせた。


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