カーライルの南方には小さな国がある。
ロス王国と言う。
人口は少ない。所有している軍備も、小規模の艦隊のみ。
ロス王国が今日まで独立を保ってこられたのは、カーライル王国と良好な関係を築いてきたからこそである。
ロス王国宮廷内。
子爵令嬢シンシアは、女王の居室で茶を入れながら、やや離れた位置にある机へ目を向けた。
視線の先では、13歳の女王が難しい顔をしながら本を読んでいる。
女王が勉学に励んでいるのを確認してシンシアは顔を綻ばせた。
今回はいつもより少しだけ頑張っているようだ。特別にお茶菓子をひとつ増やしてあげようか。
シンシアがそう思った矢先、女王ティナは書物を放り出して声を上げた。
「もう疲れたよー。お菓子まだー?」
「…………」
たしなめるか、甘やかすか。
少しだけ迷ってからシンシアは答えた。
「もうすぐですよ、ティナ様」
結局、甘やかすことにしたのだった。
大抵の場合、こうなってしまう。女王の教育係としては誤った対応かもしれない。
可愛らしいティナに可愛らしい我が儘を言われると、シンシアは厳しいことを言えなくなるのである。
教育係として長年 仕えてきたせいで、すっかり情が移り、妹を可愛がるような扱いをしてしまうのだ。
シンシアはティーセットを盆に載せて机に運んだ。
ティナが顔を輝かせる。
「お菓子だー!」
「いま並べますからね」
「はーいっ」
ティナは元気良く言って椅子に座り直した。
満面の笑みを浮かべている幼い女王を見ていると、シンシアも自然と笑顔になった。
「さあ、頂きましょうか、ティナ様」
「うん!」
ティナはさっそく茶菓子を貪り始める。
「お行儀が悪いですよ。ぽろぽろこぼれているじゃありませんか。もっとゆっくり召し上がってください。いつも言っているでしょう?」
「だって、お勉強して疲れたんだもん! だからいっぱい食べてもいいでしょー?」
「確かに今日は普段よりも頑張っていましたが、どちらかと言えば、という程度です。女王としてロス王国を良い方向に導いていかなくてはならないのですから、もう少し政治行政の基礎を学んで頂かないと」
今更ながらに説教をしてみる。
「もー! そういう難しいのは、全部シンシアがやってくれればいいのにー!」
「私はただの教育係です。今はティナ様に色々と政治面の助言をしていますが、本来は好ましくないことなのです。私が女王を介してこの国の政治を自分のものにしている、と言う者も、少なくはないのですよ」
「そんなの別に良いじゃないさー!」
「良くはありません。教育係風情が権力を握っているなどと思われたままですと、いずれ私は謀殺されてしまうかもしれません」
「ぼうさつー?」
言葉の意味が分からなかったようでティナは小首を傾げた。
「私が殺される、ということです」
「ええっ!? そんなの嫌だよっ!」
「ですから、なるべく私に頼らなくてもいいように、ティナ様にはしっかりと学んで頂きたいのです」
「ううう、分かったー……」
ティナは意気消沈して俯いたが、次の瞬間には勢い良く顔を上げた。
「でも今はお茶の時間だよねー!」
そう言って茶菓子を口の中に放り込む。
「ああ、もう、ティナ様、またこぼれてますよ」
「ん」
女王の小さな唇を拭いながらシンシアは頬を緩めた。
この子にはいつまでも笑っていて欲しい。心底からそう思う。
ティナを守るべき両親はすでに他界している。
権謀術数うずまく宮廷で、13歳の女王がひとりで上手く立ち回れるはずはなく、彼女を利用しようとする家臣は後を絶たなかった。
そこでシンシアは、教育係に過ぎない身でありながらも、ティナと最も近い立場に居ることを利用して彼女を守ってきた。
シンシアが失脚させた役人は数知れない。
裏で女王を操っている、という非難は全く正当なもので、反論の余地はなかった。
むろん、純粋にティナを案じてのことであり、自らのために権力を悪用したことはないが。
そのおかげか、ティナが女王となってから半年ほど経った現在でも、彼女の無邪気な性格は変わっていない。
一国の女王としてはいささか問題ではあるが、これで良い、とシンシアは思う。
13歳の少女が積極的に国政に関わろうとする方がどうかしている。ましてや、戦場に出るだなんて、とんでもない話だ。
今はまだ学ぶだけでいい。周辺国では慣習的に13歳で初陣を飾ることが多いけれど、ならう必要はない。
ティナが大人になるまで、女王としての責務は自分が代わりに果たせば良いのだ。
いかに大それたことをしているか、シンシアは正確に把握していた。
自分が有力諸侯から『傀儡師』と呼ばれていることも知っている。陰で糸を引く者、という意味だ。
このままでは本当に謀殺されかねないが、引くつもりはない。
とはいえ、貴族を抑えつけているだけでは、女王ティナの立場を守ることはできない。
当然ながら、ロス王国そのものも守らなければならない。
家臣団を当てにはできなかった。自家の利益しか考えていない連中に何ができるものか、とすらシンシアは思っている。
軍神レイラが隣国のカーライルに攻め入った際も、この国の重臣たちは、事態の深刻さに気付きながらも動こうとはしなかった。
自らが責任者となることを恐れたのだ。
もしレイラがあのままカーライル王国を併呑していたら、今頃はロス王国も侵略の脅威に晒されていたことだろう。
シンシアは自分の正しさを確信した。
今回の件に関してばかりではない。重臣たちの野心からティナを守ってきたこの半年間も、やはり正しかったのだ。
欲ばかりが大きい彼らにティナを任せることはできない。自分が守らねばならない。
シンシアにとって、ベリチュコフ軍の侵攻は、そのような思いを再認識させられる出来事だった。
シンシアは考えた。
今の権力バランスを私だけでいつまでも維持するのは難しい。誰かの手を借りる必要がある。重臣たちには頼れない。
なら……。
「うっ」
茶菓子を食べていたティナがいきなり声を上げた。
「どうしました、ティナ様」
「お菓子が……」
「?」
「お菓子が無くなっちゃった」
「そうですか」
「シンシア……」
ティナが泣きそうな顔を向けてくる。
「仕方ありませんね。おかわりは一回だけですよ? 取ってきますから待っていてくださいね」
「わーい」
一転して満面の笑みを浮かべるティナだった。
あまりの可愛らしさに、シンシアもつられて微笑んだ。
しかし、席を立ち、ティナに背を向けた時には、政略に思考が戻っていた。
北隣のカーライル王国は、大国というほどの国力を持っているわけではないものの、ロス王国と比べればその差は歴然としている。
ひとつ間違えば属国にされかねないが、手を組む価値はある。
重臣たちへの牽制。女王ティナの権力強化。軍事大国ベリチュコフへの対策。すべてに繋がる。
そのための道はひとつだ。
エルバート・カーライル。才能に溢れた若き第二王子。
彼とティナが婚約し、カーライル王国とロス王国が同盟を結ぶ。そこまで行ければ言うことはない。
両国間の関係は悪くない上、元々はひとつの国であったため、主要な言語と文化をおおよそ同じくしている。
強固な同盟関係を築くことも決して不可能ではない。
ただ、その前にエルバートという人間をよく知る必要がある。人格に問題さえなければ良いのだけれど。
とにかく、近いうちにカーライル王国へ赴くべきだろう。
「さて、ティナ様」
「なにー?」
ティナはお菓子を食べ尽くして満足げな顔をしている。
「そろそろ公務のお時間です」
「えー」
途端に表情が曇った。
「あれ疲れるからやだー」
「そう仰いましても」
「やだー」
「ではお勉強の続きをしましょうか」
「うん……うん?」
「公務の代わりにお勉強です。私としては一向に構いませんけれど」
「こ、公務っ、公務しますっ」
「ご立派ですよ、ティナ様」
「ううう」
――――
半年前に王位と同時に受け継いだ天位魔法により、女王ティナは天候を操作できる。
これにより、ロス王国は大地の恵みを最大限に享受しており、他国に比べて陸地面積が少ないながらも、豊作続きの農業国として知られている。
数名の役人と衛兵が見守る中、ティナは中庭へ出た。
頭上には雲ひとつなく、見上げていると吸い込まれてしまいそうな青い空が広がっていた。
「準備はよろしいですか、ティナ様」
「うん」
「では、お願いします」
シンシアが数歩下がると、ティナは目を瞑り、両手を軽く広げた。
シンシアは、周りの空気がティナに引き寄せられていくのを感じた。
ティナの身体が緑色の光を帯び始める。
優しい色だ。目にするたびにシンシアは思う。大地の恵みを象徴するかのような輝きを放っているその姿は、人のために身を捧げる天の使いのようではないか。
天位魔法は、代々受け継がれていくものであり、その性質は最初から決まっている。行使の際に放出される光の色に、本人の人格は全く関係がない。
しかしそれでも、ティナの天位魔法を見るたびにシンシアは思う。やはり、豊かな収穫を民にもたらすティナ様にこそ、緑の色は相応しい。
ティナを完全に覆った緑の光は、空へ向かって急速に伸び上がった。
シンシアは光を目で追ったが、柱の先端は、あっという間に見えなくなってしまった。
実際にどこまで到達しているのか、確認する術はない。
天位魔法でしか成し得ない膨大な魔力の放出には、何度見ても圧倒されるものがあった。
普段は可愛らしい少女でしかないティナだが、この時ばかりは、彼女が崇高な女王であることを実感させられる。
城下の者たちも、女王ティナの魔力を感じ取り、天を見上げていることだろう。
魔力の光が伸びきってからまもなく、快晴だった空が曇り始めた。
自然現象では有り得ない速度で雲が増え、ついには雨を降らせる。
天位魔法が発動してから数分の出来事だった。
居並んでいるほとんどの役人や衛兵には見慣れた光景であるため、特に大袈裟な反応はなかったが、ひとりだけ、感嘆の声を漏らす者が居た。
彼は新しく側近となったばかりで、天位魔法を間近で見たのは初めてのことだった。
声を出してしまった気持ちは理解できる、とシンシアは思った。
シンシアも、最初に立ち会った時は、あまりにも神々しいティナの姿に唖然とした。意味もなく涙が出そうになったほどである。
空は、完全に雲で塞がれていた。
雨も勢いを増していく。
雨を降らせる程度のことは、天位魔法からすれば些細なことだが、民にとってこれほど有り難いものはないだろう。
ロス王国に天位魔法がある限り、嵐や干ばつに怯える必要はないのだ。
人類の歴史は雨乞い抜きに語れない。
古来から、天候不順は農作物の凶作を招き、人々の命を左右してきた。国家や民衆がどのような振る舞いをしようと関係なく、天は常に気紛れだった。
それを理不尽だと罵る者も居れば、天からの差配だと信じて崇める者も居た。
人々は時に、天のご機嫌を窺うため、生きた人間を海に捧げた。
そんなことにどれほどの意味があるのか、確信を持って言える者は多くなかったが、生け贄の儀式は世界中で行われてきた。
ひょっとしたら効果があるのではないか。動機としてはその程度で充分だった。
飯が食えなくなる。人をしてこれほど恐怖させる事態はない。
だというのに、凶作は身近に起こり得ることであり、自分たちの手では回避できないことなのだ。
世界各地で生け贄の儀式が絶えないのは当然だった。
王侯貴族にとっても飢餓は 頭の痛い問題である。
特権階級の彼らが飢えることはそうないが、領民を無為に死なせれば税も減ってしまう。
さらに深刻なのは、民衆の間で不満が高まることだった。
飢えは人を殺気立たせる。飢餓が起点となる反乱も珍しくはない。
ここロス王国に限れば、そのような心配は不要だった。
世界中の国々が必死になって回避しようとして、それでも時には見舞われてしまう凶作と、ロス王国だけは無縁でいられる。
女王ティナのおかげで。
素晴らしいことだわ、とシンシアは心の中で呟いた。
人類の願ってやまなかった想いが今ここで実現されているのだ。
そして、改めて思う。これほど国家に貢献しているティナは、もっと敬われるべきだ。
自分の欲のためにティナを利用しようとする家臣は許しておけない。
ティナは絶対に私が守る。
以前、ティナと結婚する者を決めようと、上流貴族同士が勝手に争いを始めたことがあった。
彼らは、最初からティナの意向など気にもせず、親族を婿入りさせる形でロス王国の実権を握ろうとしたのである。
シンシアが裏から介入していなかったら、おそらくティナは今頃、そのうちの誰かと結婚させられていただろう。
好きでもない相手と夜を共にする苦痛はどれほどのものか、経験のないシンシアには分からないが、ティナがそんな目に遭っているところを想像するだけでも怖気が走った。
有力貴族との結婚が成立していたら、貞操の問題だけでは済まない。
おそらくティナはその身を酷使されていただろう。
天位魔法は使用者の身体に大きな負担を掛けるので、現在のところ、使用頻度は必要最低限に絞っている。
使用間隔は常に余裕を持たせており、少々の日照り続き程度では絶対に崩さない。
こういった慎重な使用は、運用管理にシンシアが当たっているからこそである。
ティナが他の貴族の手中に収まってしまったら、少なくとも今より数倍の行使を強要されるに違いない。
あるいは、強要するまでもなく、求めさえすればティナは応じるかもしれない。
「民を救うためにどうしても必要なことだ」と側近が訴えれば、優しいティナは断れないのではないか。
シンシアが頼む際にティナが嫌がる素振りを見せるのは、甘えているからに過ぎない。
民のためになることだと分かっているティナは、本当に拒否する気なんて最初からないのだ。
彼女が心から嫌がっているのなら、シンシアも天位魔法を使わせる気はない。
しかし他の貴族は別の考えを持っている。
嘘を交えて民の困窮を誇張し、必要以上に天位魔法を使わせようとする。
ティナは、幼いゆえに簡単に騙され、優しいゆえに身を削ってしまう。
その成果を貴族たちは自分のものにする。そして際限なくティナを酷使していく。
実際、過去に似たようなことが起きている。
あの時の再現だけは何としても避けねばならない。
目を瞑ったまま緑の光に包まれているティナを眺めながら、シンシアは、胸に秘めている想いを強めた。
私が守ります、ティナ様。
どんなことをしてでも。
今までも。これからも。