衣服のほとんどを弾き飛ばされ、体中に鞭跡を刻まれたレイラだが、依然として屈服には至っていなかった。
「いつまで強情を張っているつもりですの?」
オリヴィアは何度か大きく息を吐いて呼吸を整えようとする。
疲れ果てるまで鞭を振るっても、レイラの心を折ることはできなかった。
鞭音が弾けるたびにレイラは総身を竦み上がらせる。痛みに襲われれば小刻みに震える。
しかし、そこまでだ。悲鳴を上げることはないし、ましてや屈服の兆候など微塵も見せない。
オリヴィアは焦り始めていた。
いずれはレイラも根を上げるだろうが、これではいつになるか分からない。
こんなはずではなかった。
今頃はとっくにレイラの精神を支配しているはずだった。泣きながら慈悲を乞うレイラを、寛大な心で許してやり、ベリチュコフの情報をじっくりと聞き出しているはずだった。
もしかしたら、何の情報も得られないまま引き下がることになるのではないか。最悪の予想がオリヴィアの頭をよぎる。
まさかとは思うものの、完全に否定はできない。
散々に鞭を打たれても屈しない者を、どうすれば陥落させられるのか。
一晩 掛けて鞭で打てば、おそらくどうにかなるだろう。だが確証はない。
そこまでやっても駄目だった時のことを考え、今のうちに何か手を打っておくべきではないか……。
迅速に事態の進展を図るには、専門家に頼る他はないだろう。
ただし、人選には慎重を期す必要がある。
正規の尋問官を呼ぶのは避けたい。王族だということでレイラに遠慮して手ぬるい尋問などされては、状況が悪化するだけだ。
誰かを呼ぶにしても、王侯貴族の権威を軽視しているような異端児でなければならない。
この条件に適した人材には幸いにも心当たりがあった。
あまり力を借りたい相手ではないが、そうも言っていられない。
判断するとオリヴィアは早い。部屋の外に居た衛兵をさっそく走らせた。
――――
いくらもしないうちに若い男が部屋に入ってきた。
彼の名はノア。下級貴族の出身であり、エルバートに取り立てられ、直属の諜報部隊に席を置くようになった。
成人男性としては小柄だが、尋問の苛烈さでは他者の追随を許さない。
諜報活動でも力を発揮し、ここ最近はベリチュコフ軍の調査を行っていた。
レイラ捕縛の大戦果には、彼のような裏方の尽力によるところも大きい。
ノアは入室するなり言った。
「困った人ですね。私はあなたの部下というわけではないんですよ。こういった呼び出しは控えてもらえませんか」
オリヴィアは不満そうに自身の髪を掻きあげた。
「何を言っているの。ベリチュコフの女王を尋問できるのだから、あなたにとっても損ではないでしょう。むしろ感謝するべきではないかしら」
「尋問に行き詰まったから私に助けを求めただけのくせに、恩を売っているかのような言い方をしないでください。あなたのそういう計算には閉口させられます。美女の言うことなら男は何でも従うだなんて思わないで欲しいですね」
「別にそんなことは思っていないけれど……」
「いいえ、思っています。自分では気付いていないんですか? 無意識にそんな振る舞いをしているというのなら、尚のことあなたには呆れてしまいますよ。心の醜さが外見に表れていれば、きっとあなたは二目と見られないような顔になっていたでしょう。その方が分かりやすくて良いのに。まったく、世の中は不完全極まりないですね」
「…………」
これだから呼びたくはなかったのよ、とオリヴィアは思った。
ノアは優秀な男だが、口が悪いことで有名な男でもあった。
相手を傷付ける目的で嫌味を言っているのではなく、純粋に思ったことを喋っているだけなのだから、余計 始末に負えない。
基本的に彼の言うことは間違っておらず、だからこそ相手の精神を抉るのだ。
貴族出身の軍人でありながら諜報活動に勤しんでいる現状は、ノアのそうした気質によるところが大きかった。
――――
艦隊勤務の経験はある。
ノアは、士官学校を出てすぐに、新任少尉として航海長になった。
と言っても、実務は主にベテランの副航海長が担い、自身はまだ、学ぶことが仕事である立場だ。
新人でありながら、彼は幹部会議で作戦案を酷評した。
「追撃はやめた方が良いですよ。今回は意味がありません。この狭い海峡では、小型の海賊船に追い付くことはできないでしょう」
いや追撃すること自体に意味があるのだ、と艦長は言った。
まともな軍人ならそこで引き下がる場面だが、ノアは平然と反論した。
「ここでの追撃は示威行動だと言いたいのですか? ですが、逃げ切れるであろうことは海賊も分かっているはず。彼らに脅威を与えられるとはとても思えません。そもそも、島の陰から伏兵が現れて我々の側面を突いてきたら、どうするのです?」
艦長は怯んだ。
そこで止めたおけば良いものを、ノアの批判は、作戦案に対してのみならず、艦長の人格にまで及んだ。
「積極策に出ることによって自身の勇猛さを示したいと思っているようですが、あなた程度の思惑なんて、部下はとうに見抜いています。そんなことも分からないんですか? 皆、胸の内では呆れていますよ。また艦長の虚栄心を満たすために危険を冒すのか、と、うんざりしているんです。私も同感ですね。少しは周りの顔色を見て察して欲しいものです」
ここで、艦長に代わり、副長がノアを叱責した。
だがノアは止まらない。
「本当は私と同意見なのに、それでも怒った振りをするだなんて、器用な人ですね。そんなにも艦長に気に入られたいのですか? でしたらご安心を。艦長はあなたのことを気に入っていますよ。あなたが忠実だからではありませんがね。必死に媚びようとするあなたの腐った性根を艦長は気に入っているのです。小物の艦長は、自分よりもさらに小物であるあなたを見て優越感に浸っているというわけです」
新人に一方的な低評価を言い渡された副長は、怒りのあまり声を失った。
硬く握られた拳の震えを見れば、彼がいつ暴力に訴えてもおかしくないのは明らかだったが、ノアは口を閉じなかった。
「艦長を見下しているあなた自身も、実のところ当の艦長から見下されていたという、なんとも救いがたい状況なのですが、互いに利用し合うのは理想的な関係だと言えます。このままいけば、あなたは艦長の下で順調に出世できるでしょう。良かったですね」
ノアの言葉はそこで止まった。
副長に殴り付けられたのである。
倒れ込んだノアに跨った副長は、何度も拳を振り下ろした。
止めようとする者は誰も居なかった。
そのようにして艦を追い出された彼の噂はすぐに広まった。
艦隊に留まることはできず、後方で資料整理をする日々が続いた。
どれほど冷遇されようとノアは態度を改めなかった。自分の正しさを確信しているからだった。
ノアの信条が肯定されたわけではないが、のちに彼は、エルバート直属の諜報部隊に引き抜かれた。
――――
「そんなに嫌そうな顔をしないでくださいよ、オリヴィア様。どうして皆、私と話をすると顔を顰めるんです?」
「きっと、あなたのことが嫌いなのよ。私の個人的感情を参考にして予想しただけだから、間違っている可能性もほんのわずかにあるかもしれないけれど」
「なるほど。しかし、オリヴィア様の仮定が正しいのだとしたら、必然的にひとつの疑問が生まれますね」
「何かしら?」
「なぜ私はこうも嫌われるのでしょう?」
不思議そうに首を傾げるノアを見て、オリヴィアは、彼を追い返したい衝動に駆られたが、なんとか思い留まった。
「そんなことより尋問をお願いしたいのだけれど」
「まあ、ベリチュコフの調査は私の任務ですし、尋問しろと言われれば否応はありません。文句はありますが、すでに言い終えていますからね。繰り返し言っても仕方がないでしょう。あなたは他人の言葉で自己を省みたりはしない人間ですし」
「…………。じゃ、始めて頂戴」
「その前に一つだけ。隊長に話は通してあるんですよね?」
「隊長? ああ、諜報部隊の? 心配には及ばないわ。アレクセイ隊長にはすでに許可をもらっているから」
「了解しました。ではお任せください」
ノアは準備を始めた。
「また無駄なことを」
レイラは静かに言った。
彼女の全身には鞭痕が無数に走っている。
熱を含んだ痛みに絶え間なく襲われているはずだが、まるで気にしていないかのような口調だった。
――――
ノアによって椅子に座らされ、手足を縛り付けられ、皮ベルトによって顔を上向きに固定されても、女王の態度には微塵も乱れがなかった。
レイラは、不自由な格好で天井を見つめたまま、口だけを動かした。
「拷問程度で私をどうにかできると思っているの?」
「思っていますよ。どうやら、かなりの鞭打ちを受けたようですね。オリヴィア様もなかなか容赦がない。女王陛下が今の時点でも気丈な態度を取っていられることには驚かされます。さすがに軍神と言われるだけのことはある、といった感じですか」
言いながらノアは準備を進めている。
「しかしですね、多少の苦痛を乗り越えたからといって、私の拷問にも耐えられるだろうと思ってもらっては困ります。女王陛下にとっても良くないことですよ。楽観的な考えは捨てた方が身のためです。尋問の手段としては、鞭なんて遊びのようなものですからね。真の苦痛がどういったものか、女王陛下はまだ御存知ないでしょう」
「生憎ね。お前がやろうとしていることくらい、私には分かっているわ」
「ほう? もし本当なら、今もって平静を保っていられるあなたの精神力には、敬服するしかありませんね。たとえ、ただの強がりであろうとも」
ノアは拷問具のひとつを手に取った。
開口具と言われる物で、相手の口を開いたまま固定するための金属器具である。
ノアは、空いている方の手でレイラの顎を掴んだ。白い頬に指が食い込む。
レイラの口がわずかに開いた。
そこにノアが無造作に開口具を取り付ける。
強引に開かれた口は、四隅を金属棒によって押さえられ、彼女自身の意思では閉じることができなくなった。
「何をするつもりなの?」
横からオリヴィアが聞くと、ノアは笑みを浮かべた。
「口の中は、思いのほか敏感に出来ているのです。歯の神経ともなれば尚更ね」
「神経……」
「ええ。歯の奥に埋まっているのですよ、神経が。屈強な戦士ですら、そこを少し責められるだけで、転げ回りながら許しを乞うようになるのです」
「…………」
「まあ、女王陛下は拘束されていますから、転げ回ることはできないでしょうし、開口具を嵌められているので、許しを乞うこともできないでしょうがね。ですがご安心ください。手を緩めるつもりは全くありませんので。後でどんな話を聞くにしろ、とりあえず徹底的に痛め付けます」
ノアは開口具を軽く押して、レイラの口が固定されていることを確かめた。
「女王陛下。若干ながら呼吸が荒くなっているようですよ。息が苦しいのですか? そんなに大きく口を開けているのに、おかしいですね。汗も、額にびっしりと掻いているじゃないですか」
ノアの言葉を聞いたオリヴィアは、自分も汗ばんでいることに気付いた。
横で見ているだけの私ですら緊張状態にあるのだから、これから拷問を受けるレイラ本人の心境は、想像を絶するものがあるだろう……。
ノアは拷問器具を持って、レイラを見下ろした。
「まさかとは思いますが、神経を嬲られることを恐れているのですか? 表面上はどうにか取り澄ましてはいても、恐怖を抑えきれず、汗を掻いてしまった、と。そういうことですか? 幻滅させないでくださいよ。諸国を蹂躙してきた狂気の女王ともあろうお方が歯の神経ひとつでそんなにも焦るとは思いたくありません。どうなのですか、実際」
「…………」
レイラは答えない。そもそも開口具のせいでまともに喋ることはできないのだが、そうでなかったとしても、答えなかっただろう。
ノアの皮肉に反応している余裕など、あるはずはない。
一筋の汗が目に入り、レイラは何度か瞬きをした。
「まあ、試してみれば分かることですよね。せいぜい、澄ました顔のままやり過ごしてくださいよ」
拷問が始まった。