王都の軍港に戻ったエルバートを、歓呼に湧く民衆が迎えた。
「カーライルの救世主!」
「エルバート殿下、万歳!」
心からの歓迎だった。
女王レイラの脅威は下々の者にまで伝わっており、近いうちに来るであろう圧政に怯えていた彼らは、こぞってエルバートを賛美するようになったのである。
実際、エルバートの戦果は、奇跡と呼んでも差し支えなかった。
敵軍ベリチュコフは35隻の大艦隊を率いていた。対するカーライル軍はわずか7隻。本来なら、勝負になるような戦力差ではない。
いくつかの幸運に恵まれたとはいえ、輝かしい勝利の印象がそのせいで薄まることはなかった。
つい先日まで、宮廷から漏れてきた噂を疑いもせず、各々の口からも駄目王子の烙印を押していた民衆ではあるが、今やそんなことはすっかり忘れていた。
エルバートが手を挙げて応えると、より大きな歓声が上がった。
――――
港に用意されていた馬車に乗り込んだエルバートは、隣に腰を下ろしたデュークに言った。
「予想していた通りの反応だけど、民衆の移り気には驚かされるな。記憶力に難があるんじゃないかと疑いたくなる」
「捻くれすぎだよ、エル。褒められているんだから、素直に受け取ればいいじゃない」
「変わり身の早さは恥じるべき要素だと俺は思うね。今まで陰口を叩かれまくってきた身からしたら、あまり気分のいいもんじゃねえし」
向かいの席に座ったラナが意外そうな顔をした。
「あんた、気にしていたの? そういうの」
「そんなでもないが、まあしかし、こうも簡単に掌をかえされると、これまでの態度は何だったんだって思うだろ?」
「自業自得でしょ。最初からやることをやっていれば、軽んじられることもなかったでしょうに」
「そりゃそうかもしれんけど」
デュークが苦笑しながら言う。
「まあ、いいじゃない。3人ともこうして無事生還できたんだし、今は神に感謝しよう」
「神ね……。それにしても、デューがあんなにも立派に戦えるだなんて、少し驚いたわ。昔3人で島々を渡り歩いていたときは、海賊を見ただけで泣きそうな顔をしていたのにね」
「と、とにかく、運がよかったとはいえ、僕たち、軍神レイラに勝ったんだよな。まだあんまり実感がないんだけど」
ラナは神妙に頷いた。
「勝ったわ。でも、こちらの死傷者だって100人を超えているのだから、あまり手放しでは喜べないわね」
ラナの言葉にエルバートが反応する。
「そんくらいの犠牲で済んだのは奇跡だろ? 全滅していた可能性の方が高かったんだぞ」
「戦果自体は、これ以上ない結果だったけど、戦死した人にとっては自分の死がすべてなのよ。そのことを忘れないで」
「忘れてなんかないって」
「まあ、そうだとは思うわ。けど、あんたは変に割り切りの良いとこがあるから、なんだか危なっかしく感じるのよね」
「割り切りが良いって?」
「目的のためには犠牲を厭わないってことよ」
「そんなもん、誰でも同じなんじゃね? 100人の命と俺の命、助けられるのはどっちかだけって状況なら、お前も迷わず俺の命を選ぶだろ?」
「そういうことを言うのは卑怯じゃないかしら」
「かもしれん……」
「なんにしろ、今回の勝利は偶然が積み重なっただけだから、変な勘違いはしないでね」
「勘違いってなんだよ」
「自分の力ですべてが上手くいったとか、そういう思い違いをしないでって言ってるの」
エルバートの代わりにデュークが頷く。
「確かに、僕たちの奇襲にベアトリス姫が呼応しなかったら、みんな殺されていただろうね」
「俺だって分かってるけどさ」
認めたもののエルバートは不満げだった。
「つっても、今くらいはそんなごちゃごちゃ言わなくてもいいだろ」
「そうもいかないわ」
ラナはきっぱりと言った。
「なんだよ。本気になれば何でもできるはずだとか、おだてるようなことをいつも言ってるくせに」
「あんたの場合、調子に乗るとそれはそれでおかしなことになりそうだから、釘を刺しておかないとね。気を抜いたら駄目よ。女王レイラを失ったベリチュコフ軍は撤退していったけれど、このまま黙っているとは限らないわ。これからやらなくちゃいけない後処理もたくさんあるんだからね。特に、エル。王宮に帰っても休んでいる暇なんかないってこと、分かってるでしょうね」
「デュー……」
エルバートは助けを求めて親友の名を呼んだ。
――――
王宮は騒がしかった。
思わぬ勝利に誰もが浮かれている。
軍会議所も同様だった。
エルバートが足を踏み入れると、軍幹部が一斉に立ち上がった。
「大勝利、おめでとうございます!」
口々に祝いの言葉を述べる彼らをエルバートは手で制して座らせた。自分も手近な椅子に着席する。
「皆、よくやってくれた。特に先頭艦の斬り込み隊。見事な戦いぶりだった」
「まさにその通り!」
エルバートはデュークを褒めるために言ったのだが、思わぬところから追い風が吹いた。
デュークと共に最前線で戦った参謀長ネイサンが、勢い良く立ち上がって、熱く語り始めたのである。
「デューク艦長の勇猛さは他に類がありません! 恥ずかしながら、私も含めてほぼ全員が絶望に沈んでいた時もありましたが、デューク艦長ただおひとりは、最初から最後まで前を向いて戦い続けていたのです! ストレンジャー公爵家の長男に相応しい猛将であられると、私は確信致しました! デューク艦長おらずして今回の勝利はなかったと言っても過言ではないでしょう!」
「いや、はは」
調子良く捲し立てるネイサンにデュークは苦笑した。
あの戦闘中、デューク自身はただただ必死なだけだったが、ネイサンからすると何やら感じ入るところがあったらしい。
「勝利を祝して、このネイサン、酒を用意しておきました。乾杯といきましょう!」
「こ、ここで?」
デュークは困惑を露わにした。会議中に酒盛りなど、真面目な彼には考えられないことだった。
「さあ、エルバート様もデューク艦長も、遠慮なさらずに」
「しょうがないな、参謀長は」
そう言いながらもエルバートは酒を呷った。
しばらくしてからデュークも渋々ながら飲み始めた。
最初は断っていたが、ネイサンに何度も勧められて、結局は折れたのだった。
――――
軍議とは名ばかりの祝勝会を終えてエルバートは自室に戻った。
伯爵令嬢オリヴィアが、微笑と共に彼を迎えた。
「おかえりなさいませ。ご無事でなによりですわ」
オリヴィアは椅子から立ち上がった。長い金髪が、流れるように揺れる。
「勝手に王子の部屋に入るとは、いい度胸だな」
酒が入っているためエルバートの声は弾んでいる。
どちらかといえば酒には弱い方だが、どちらかといえば酒が好きな方である。一度 飲み始めると深く酔ってしまうのが常だった。
「そんなことで怒るような小物ではないでしょう、エルバート様は。それより、戦勝おめでとうございます」
「そりゃどうも、ありがとうございます」
言いながらエルバートはベッドに寝転んだ。
「お前の予想が外れて勝っちまったな」
「そう苛めないでくださいな」
オリヴィアは殊勝に目を伏せた。
自分の見立て以上の能力をエルバートが備えていたことは認めざるを得なかった。
幸運が重なったおかげだとしても、同じ状況下で勝利を掴める者などそうは居まい。
エルバートが駄目王子でないことは認めよう。一戦だけで判断するのは早計かもしれないが、兄に大きく見劣りすることは決してないだろう。
だとしたら、とオリヴィアは思う。実力がありながら、周囲を見返そうとしなかったどころか、あえて無能を装ってきたエルバートという男は、いったい何なのだ。
できないからやろうとしないのならば理屈は通る。心情的にも分からなくはない。
けれども、手を伸ばせば届くものを放っておくというのは理解に苦しむ。
自分の力のみを頼りに生きてきたオリヴィアにとって、エルバートのような生き方は許しがたいことだった。嫌悪感さえ抱いた。
しかし、王宮において最大の後ろ盾であるエルバートに背を向けるわけにはいかない。
オリヴィアは椅子に座り直した。
ベッドの上で横になっているエルバートと目線が近付く。
「ところで、エルバート様。女王レイラを捕らえた今こそ、ベリチュコフ領に侵攻する好機ですわね」
「だから?」
「侵攻しましょう」
「ちょっと前は降伏しろって言ってたのに、今度は侵攻しろってか。忙しい奴だな、お前は」
「柔軟性があると言って欲しいですわ。で、どうでしょう?」
「そんな面倒なことを自分からやるつもりはない。今回レイラに奪われた領土は、すでに取り戻しただろ? そのせいで、滅茶苦茶な量の事務仕事が俺に回されそうなんだよ。貴族たちに元の領地を返してやるだけでも、色々と手続きやら承認やらが必要なんだとさ」
「それはそうでしょう」
「だから、これ以上 負担が増えるようなことはしたくない」
「ならばデューク様に艦隊を率いさせればよろしいではありませんか。王都駐留艦隊の司令官は元々彼ですし」
「そういうのもちょっとなぁ」
「幼馴染みに無理をさせたくないのですか?」
「悪いか?」
「…………。長年に渡って我が国を脅かしてきたベリチュコフ軍を叩く良い機会ではありませんか。みすみす機を逸したとなると、後で国王陛下からお叱りを受けるのでは?」
「ん、まあな」
エルバートは少しだけ逡巡したが、首を縦には振らなかった。
「やっぱ、やめておこう」
「仕方ありませんわね」
「お? 意外にあっさり諦めたな」
「なんですか、その言い方は。まるで、私がいつも強引に物事を進めているかのように聞こえますけれど。私は常にエルバート様の意向を実現するために動いていますわ」
「そうだったかな」
「そうですわ」
とは言うものの、オリヴィアがすぐに進言を引っ込めたのには理由がある。
先日 降伏を勧めたばかりである手前、ここで強硬に主張するのはさすがに気が引けたのだ。
もっとも、ただで引き下がるつもりはなかった。
「エルバート様。代わりと言ってはなんですが、ひとつお願いがあります」
「なんだよ」
「レイラ女王の扱いは私に任せてもらえませんか?」
「どうする気だ?」
「私が直接 尋問して、ベリチュコフ王国の情報を手に入れてみせます」
「尋問ねぇ……」
呟きながらエルバートは迷った。
たとえ敵国であっても、レイラは正真正銘の女王だ。普通なら恐れ多くて尋問などまともにできはしない。軍に任せていては、ろくな情報を得られないだろう。
その点、オリヴィアなら心配ない。彼女は手段を選ばない。おそらく尋問は容赦のないものになる。軍神レイラも観念して洗いざらい情報を吐いてくれるかもしれない。
……だからといって、オリヴィアに委ねるのはどうだろう。やりすぎてしまうような気もする。
「どうでしょう、エルバート様」
「んー」
「お願い致します」
「どうすっかなぁ」
「エルバート様」
「分かった分かった」
結局エルバートは承諾した。断って食い下がられても面倒だという、それだけの理由だった。
「ありがとうございます」
オリヴィアは満足そうな様子で部屋を出て行った。
「ふう」
酔いの回った身体を休めるためエルバートは目を瞑った。
眠気はすぐに訪れた。