水の星、世界を手に入れる男
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第一章 第二章 第三章
『水の星、世界を手に入れる男』
第06話 天位魔法

 カーライル軍はふたつに分断されていた。デュークを艦長とする先頭艦と、それ以外とにである。
 結果として、エルバートの乗っている二番艦が集中的に敵の砲撃を受ける形になった。
 エルバートは強引に敵艦を突破しようとしたが、立て続けに魔術弾の直撃を食らい、やむなくデューク艦との早期合流を断念した。

 そうこうしているうちに、混乱状態にあったベリチュコフ艦隊は落ち着きを取り戻し始めた。
 個別の判断で動いていた各艦が、次第に連動して応戦してくるようになったのである。
 敵艦の砲撃は密度を増し、カーライル軍後続艦6隻の動きは大きく制限された。

 当初の予定では、デュークの先頭艦に続いて、エルバートの二番艦も敵旗艦に強行接舷するはずだった。
 今や完全に破綻している。
 エルバート艦はまだ戦闘能力を失っていないが、乗組員の死傷者が続出していた。

――――

「デューク少将、どうなさいますか!?」
 ネイサン参謀長は自ら白兵戦を展開しながら、怒鳴るように聞いた。

「どうするもなにも、ここまで来たらレイラを目指して進み続けるしかない。僕たちだけで旗艦を制圧するのは難しいが、今さら言っても意味がない。レイラの首を取るか、こっちが殲滅されるか、どっちかだ」
 デュークは周囲を警戒しながら答えた。
 自分から手近な敵に挑むことはない。積極的に戦う体力はもう残っていなかった。なるべく余力を残すため、敵に襲われた時だけ剣を振るうようにしている。
 戦況は極めて厳しかった。

――――

 戦姫ベアトリスは船上に出た。
 甲板は兵士たちの雄叫びが飛び交っていた。カーライル兵もベリチュコフ兵も、自分を鼓舞するため、意図的に大声を上げながら戦っているのだ。

 転がっている死体の数だけならば両軍に差はないが、甲板の状況は、ベアトリスからすればあまり思わしくなかった。
 奇襲されているというのに、ベリチュコフ兵は戦意旺盛で、我先にと敵兵に斬り掛かっている。
 カーライル兵はその勢いに押され、じりじりと後退していく。

 艦の外に目を向けると、より深刻な事態であることが分かった。
 先頭艦と切り離されたカーライル軍の後続艦が、レイラ艦隊に半包囲されて、激しい砲撃に見舞われていた。
 周辺海域に散っているベリチュコフ軍も、いずれ続々と集まってくるだろう。

 急がなければならない。
 戦況も逼迫しているが、他にも理由があった。
 ここに来るまでにベアトリスは水兵を3人斬った。すぐに船室から追っ手が上がって来るだろう。
 これからレイラを討ち取らねばならないのに、そんなものまで相手にしている余裕はない。
 親衛隊に囲まれているレイラを見付けると、ベアトリスはすぐに動いた。

――――

 女王レイラは全身に赤い光を纏っていた。雨が降っていることもあって、周りからは彼女の輪郭がぼやけて見えた。

 足元に魔法陣はない。
 『魔法使い』であるレイラには、わざわざ魔法陣を介して魔法の真似事をする必要がなかった。

 レイラの魔法は、魔力の塊を敵にぶつけるという単純なものではない。彼女は他人の感情を支配し、操作する。
 戦場においては主に、兵士の闘争本能を引き出すために使われる。

 魔法の影響下に置かれたベリチュコフ兵は、恐怖を忘れ、戦意のみを剥き出しにしていた。
 奇襲された動揺のせいで一時的に押され気味だった彼らだが、レイラが魔法を行使した途端に戦線を維持し、さらにはカーライル兵を押し返し始めた。

 致命傷を負って死ぬ寸前にあった者でさえ、手足が動く状態であれば、レイラの魔力に触れた直後には立ち上がり、力強く剣を握る。
 彼女の指揮する艦隊が敵味方から『不死艦隊』と呼ばれる由縁だった。

 彼女がその気になれば、周囲の艦隊まで丸ごと影響を及ぼすことも可能である。
 甲板上で行われた逆転劇は、艦隊規模でも起こり得るのだ。

 『魔法使い』は、各国の王など、極一部の血筋に限られている。
 魔法は一子相伝の秘術であり、王位と共に継承されることが多く、一般に天位魔法と呼ばれる。

 天位魔法の性質は多岐に渡る。
 たとえば、天候を自在に操る王が居る。たとえば、一瞬で艦隊を吹き飛ばす王が居る。魔力を肉体の強化のみに注ぎ込み、桁違いの身体能力を実現し、ひとりで千人を斬り捨てたという伝説を持つ王も居る。

 『魔法使い』は神の血を引いている、という言い伝えが世界中にある。
 あくまで言い伝えであり、根拠のない噂と大して変わらないのだが、天位魔法を目撃した者にとっては、真実味のある説となる。

――――

 親衛隊のひとりをベアトリスは一振りで斬り伏せた。
 彼らの意識がカーライル軍に向いていたため、あっさりと片付けることができた。

 ベアトリスの存在に気付いても親衛隊は即応できなかった。間近に居る者は目を見開いている。
 戦姫が船室から出てくる可能性があることを彼らは一切 教えられていないようだった。
 レイラが伝え忘れていたというわけではないだろう。艦隊戦にしか興味のない女王は、些細なことに構う気になれず、あえて放置していたのだ。

 どんな指揮官にも欠点はある。
 油断していたところを配下に討ち取られた覇王や、過去の成功に固執して戦術的判断を誤った名将など、挙げていけば際限がない。
 軍神レイラも例外ではないのだ。

 この好機をベアトリスは最大限に利用した。
 親衛隊が身構えるまでの数瞬で、さらにひとりを斬り殺す。

 総身から赤色の魔力を発しながら側近に次々と指示を飛ばしていたレイラは、ベアトリスに気付くと動きを止めた。
 そして、感情表現の乏しい女王にしては珍しく、控え目ながらも笑みを浮かべた。

 ベアトリスはレイラとの距離を詰めに掛かった。
 間に存在するのは10人以上。そのうち、積極的に立ちはだかろうとする親衛隊は5人に過ぎない。他の者はカーライル兵に意識を向けている。
 たったひとりの反乱者と、数十人のカーライル兵。これを比べれば妥当な対応と言える。
 しかし、ベアトリスは何度も先陣を駆けてきた戦姫である。コーネリアス姫には不意を突かれたが、こうして自由に剣を振るっている限り、およそ敵は居ない。

 親衛隊のひとりが斬り掛かってきた。
 ベアトリスは斬撃を剣で受け止め、相手の勢いを左に流した。
 上体が前へ突っ込んだ形になった敵兵の背中を、ゆったりとした動作で貫く。

 剣を引き抜くと速攻に出た。別の親衛隊に狙いを定め、瞬時に距離を詰める。
 敵は頬を引き攣らせながら慌てて剣を振った。

 放たれたのは横薙ぎである。
 ベアトリスはそれを、同じく横薙ぎで弾き返した。

 剣閃の一致抜きには不可能な神業に敵兵は目を見開いた。
 明らかな隙が生じた。

 ベアトリスは剣を突き出し、敵の首を貫いた。

 刺突で敵を殺すのは、達人であっても容易なことではない。まずもって剣先の制御が難しく、その上、相手が少しでも動けば、それだけで仕損じてしまう。

 だが戦姫は戦場で突きを多用する。
 切っ先を自由自在に操れるのであれば、これほど効果的な攻撃はない。
 事実、彼女は幾人もの猛者を貫いてきた。

 さらに速く動くことも可能だが、あえてそうしなかった。対峙する相手の速度を上回りさえすれば充分だと考え、そのぶん確実性を追求したのである。
 彼女が持つ最大の武器は、常人離れした速度ではなく、正確無比な剣捌きにあった。
 敵の隙を見極め、正確に急所を突けば、結果的に、最も素早く敵を片付けることができる。
 最短こそ最速。
 それが戦姫の信条だった。

 こちらを向いている親衛隊は、あと3人。この数ならば、いちいち倒さずとも突破できる。
 一気に駆け抜けようとベアトリスは身を屈めた。

 しかし機先を制される。
 カーライル兵に注意を払っていた残りの親衛隊の大半が、ベアトリスとレイラの間に割り込んできたのだ。
 整った動作であったことから、レイラの指示であることは明白だった。
 これで、敵意のある親衛隊10人以上を相手にしなくてはならなくなった。
 さすがに対応が早い。ベアトリスは内心で舌打ちした。

――――

 カーライル軍後続艦6隻は後退を開始した。
 敵の集中砲火によって進撃を阻まれた結果だった。
 これで三度目である。

「くそっ!」
 エルバートは床を踏み鳴らした。
 真面目にやっているのに上手くいかないことなんて、これまでの人生でも数えるほどしかなかった。
 軍神レイラの力がこれほどとは……。

 天位魔法は厄介だが、彼女の脅威はそれだけに留まらない。
 甲板上の白兵戦を指揮しつつ、艦隊を自在に動かす指揮統率。その手腕こそ恐れるべきだった。

 仮にレイラが凡百の指揮官であったなら、エルバートはとっくに護衛艦を突破し、デュークと合流していただろう。
 あの赤い魔力が敵兵に作用していようとも、こちらが2隻分の斬り込み隊を送れば、数の差で甲板を制圧できる。
 そのはずだった。

 軍神の力を甘く見ていたことをエルバートは認めざるを得なかった。
 後悔している暇はない。
 猛烈な砲火を浴びている後続艦6隻をとにかく守らなければならない。

「あまり下がりすぎるな! 先頭艦がレイラを討ち取るまで耐え抜くんだ!」
 エルバートは細かい位置取りを側近に指示した。
 その間も焦りを隠せない。
 敵護衛艦を挟んではいても、デューク艦とエルバート艦に大した距離はない。目を凝らせば甲板の戦況がある程度掴めるほどである。
 だからこそエルバートはもどかしく思うのだった。

 しばらくして、1隻の艦が遠方から出現した。帆にはベリチュコフ軍の旗が掲げられていた。
 敵の援軍が駆け付けてきたのだ。

 エルバートは戦慄した。早すぎる。いや、俺が手間取りすぎたのか。
 援軍は単艦ながら、レイラ艦に接近しようとしている。接舷するつもりなのだろう。
 このままだとデューク艦は倍の敵を相手にしなければならなくなる。

「デューが嬲り殺しにされる。俺が送り込んだせいで、あいつが!」
「私に言ってるの?」
 動揺を露わにするエルバートとは違い、ラナは普段通りの態度を保っていた。
「ねえ、エル。ちょっと聞きたいんだけど」
「な、なんだよ」
「あんたさ、軍神レイラ相手でも、すべて上手く事が運ぶって思ってたの?」
「…………」

「まあ、そうなんでしょうけれど。何だかんだ言いながら、本当のところ、あんたは自信に満ち溢れていたのよね。本気になれば、できないことなんて何もない。そう思っていたんでしょう? けれどね、あんたがどれほど優れた才能の持ち主であったとしても、最初から最後まで上手くいくはずなんてないわ」

 ラナは微笑んだ。
「まずは落ち着いて、そのあと、どうすればいいか考えるのよ」
「……ああ」
「だったら、ほら」
 ラナは手を伸ばした。エルバートの頬をぐにぐにと揉みほぐす。
「いつもみたいに不敵に笑っていなさいよ。あんたがその気になれば、何だってできるのだから」
「さっきと言ってることが違くないか?」
「そう?」
 ラナは手を離したが、エルバートの頬は緩んだままだった。
「それはあれよ。思い通りにならない過程もあるだろうけど、あんたなら最終的には上手くやるってことよ」
「適当だなぁ」
「けど私の言いたいことは分かるでしょう」
「まあ、なんとなくならな。にしても、お前はいつでも冷静だよな」

 言い終えると同時に、敵の魔術弾がエルバート艦の先端を削り飛ばした。
 ラナはちらりと目をやって、新たな死傷者が出ていないことを確認すると、何事もなかったかのように話を続けた。
「あんたがいつまでも子供のままだからよ。嫌でも私がしっかりしないとね」
「本当にしっかりしてるよ、お前は」

「で、これからどうするの、エル」
「そうだな……」
 エルバートは敵旗艦を凝視した。
 船首側では壮絶な斬り合いが行われている。反対の船尾側には赤い光が見えた。

 少しだけ迷ってからエルバートは言った。
「接舷は諦めよう。その代わり、敵旗艦に砲撃を加える」
「いいの? 乗り込んでいるデューたち斬り込み隊にも被害は出るだろうし、敵旗艦に接舷している先頭艦も沈むかもしれないわ。斬り込み隊は、私たちに見捨てられたと思うでしょうね、きっと」
 言葉とは裏腹に、ラナの口調は、反論しているような響きを持っていない。
 エルバートの真意を彼女は読み違えていなかった。

――――

 至近に水柱が上がり、デュークは息を呑んだ。
 見ると、エルバート艦からの砲撃であることが分かり、目を疑った。
 斬り込み隊の兵たちもすぐに気付いた。敵の援軍に接舷された直後であったため、彼らの混乱は大きかった。
「どうなっている!?」
「なぜ味方が撃ってくるんだ!」
 悲鳴のような声が上がる。

「もしや我らは見捨てられたのか」
「そんなことは……」
 傍らのネイサンの嘆きにデュークは反論しようとした。けれど有効な言葉が見付からない。
 どうすればいいか分からず、もう一度エルバート艦に目を向ける。

 エルバート艦は、二発目三発目を続けて撃ってきた。
 どう見てもこちらを狙っている。もちろん狙っているのは敵旗艦なのだろうが、自分たち斬り込み隊も乗り込んでいるのだから、一緒になって狙われているも同然だ。
 これでは、レイラを倒すためなら先頭艦を犠牲にしても構わないと思っているとしか……。

 いや、とデュークは心中で呟いた。
 エルが僕を見捨てるなんてありえない。ありえないのだから、考えるだけ無駄だ。エルは僕を助けたいと思っている。これは事実。疑う余地はない。だから、この砲撃は僕を助けるための手段だ。そうに決まっている。
 まず結論は出た。そこから逆算してエルの意図を想像すると……。

 デュークは、思ったことをそのまま口にした。
「これは僕たちへの援護だ」
「……我らも砲火に晒されているではありませんか、デューク少将」
「僕たちは、すでに甲板上で押されているところを、新たに敵艦1隻分の斬り込み隊も相手にしなければならなくなったんだ。もはや正攻法での勝利は望めない。けど見てくれ、あれを」
 デュークは剣の切っ先で、離れた位置に居るベリチュコフ兵を差し示した。

「分かるだろう、参謀長。砲撃で混乱しているのは敵も同じだ。エルは、流れを変えるきっかけを与えてくれたんだよ。こっちまで混乱していたら、僕たちは確かに犠牲になるだけで終わるだろう。だけど、ここでエルの判断に乗じることができれば、この砲撃は間違いなく僕たちへの援護になる」
「仮にデューク少将の仰ることが正しいとしたら、エルバート様の作戦はあまりにも無謀すぎる。我らに魔術弾が直撃する危険性もさることながら、デューク少将がそのような考えに至るという根拠など、どこにもないではありませんか。こちらがエルバート様の思惑通りに動かなかった場合、やはりレイラ女王と共に我らを海に沈めるつもりなのではありませんか」
「エルはそんな事態なんて想定していない。根拠なら、ある。僕はエルを信じている。だから絶対に動く。エルもそれを信じているんだ」

「そんなことが根拠になるとでも?」
「ああ、そうだ」
 デュークは確信を持って答えた。

――――

 女王レイラは脱力した。身体を覆っていた赤い光は消えていた。天位魔法の使用を中断したのである。
 破れかぶれで味方もろとも砲撃する相手などに天位魔法を使う必要はない。
 旗艦に乗り込んできたカーライル兵は、味方に裏切られた動揺で、じき恐慌状態に陥るだろう。

 レイラは失望感を覚えた。
 この奇襲自体もただの自棄だったのだろうか。だとしたら拍子抜けにも程がある。せっかくこの私がやる気になったというのに……。

――――

「全艦、砲撃を続けろ!」
 エルバートの号令の下、カーライル軍後続艦6隻は、火力のほとんどをレイラ艦に叩き込んだ。

 その間にも、周囲のベリチュコフ艦から砲撃され、いくつも被弾したが、エルバートは構わず攻撃を続行した。
 敵護衛艦を飛び越えての砲撃であるため命中精度は良くなかったが、しつこく撃ち続けているうちに、1発の魔術弾がレイラ艦に直撃した。

――――

 ひとつやふたつの命中程度で艦は沈まない。被弾で艦が揺れる中、デュークは声を張り上げた。
「今だ! 全員突撃!」

 この砲撃が援護であると受け取った者はデュークの他に居なかったが、レイラを打倒しない限り自分たちに命がないことは、斬り込み隊の誰もが悟っていた。
 上官の命令さえあればまだ動けるのだ。デュークの声に押されるようにして彼らは前へ出た。

 デュークも、残り少ない力を振り絞って剣を振るった。もはや体力の温存を考えている時ではない。
「足を止めるな! 女王はすぐそこだ!」
 デュークを先頭にした斬り込み隊は一気に前進した。

――――

 表情にこそ出さなかったものの、レイラは驚いていた。
 味方から砲撃などされたら戦意など失せるはず。斬り込み隊の指揮官はよほどの戦闘狂なのだろうか。周りの兵を激励している若い男がどうやら隊を率いているようだが。

 顔だけ見ると、貴族のお坊ちゃんという印象を受ける。戦いぶりにしても、必死に背伸びをしている若手将校といったところか。
 戦場にはあまり慣れていないらしい。ひょっとしたら白兵戦は初めてなのかもしれない。すでに体力を使い切っている様子から、そう推測することができる。
 この状況で部隊の士気に気を配ることのできる器であるとは、どう見ても思えない。何か個人的な背景が影響しているのだろうか。

 若干の興味を引かれながらもレイラは迎撃の指示を出した。ついで、もういちど天位魔法を発動させようとする。
 しかしその動きは途中で止まった。
 レイラの頭にベアトリスの存在があったゆえだ。
 戦姫は今どこまで迫っているのか。
 わずかな逡巡だったが、懐にベアトリスを抱え込んでいる状況では致命的な空白だった。

――――

 雪崩れ込んでくるカーライル兵の勢いに押されて、ベリチュコフ兵は完全に浮き足立っていた。
 ベアトリスはこの好機を逃さず、親衛隊の間を駆け抜けた。

 なおも行く手を阻む親衛隊は、たった2人。
 カーライル軍の斬り込み隊が決死の突撃を仕掛けてくれたおかげで、ずいぶんと道が開けた。

 敵の剣閃を紙一重で避け、軽く剣を振る。
 親衛隊員の両腕が肘の辺りで切断される。
 それが床に落ちた時、すでにベアトリスは敵を抜き去っていた。

 レイラは、残されたひとりの親衛隊員の陰に隠れていた。
 その姿だけを見れば、往生際の悪さを罵る者も少なくないだろうが、ベアトリスの感想は違った。
 艦隊の総司令官が自分の命を最優先で守るのは当然のことだ。むしろ、闇雲に逃げて背中を見せたりはせず、冷静に生存率を上げようとするその姿勢に、ベアトリスは賞賛を送りたいとすら思った。

 同時に、レイラの判断力が憎らしくも感じた。
 極めて残忍な女王が、充実した軍と用兵の才能を得たせいで、いったいどれほどの人間が苦しめられてきたことか。

 ベアトリスは小さく息を吐いた。
 虜囚生活で鈍っている身体が、激しい動きの連続に悲鳴を上げていた。特に胸が苦しい。足を止めて荒い呼吸を繰り返したかった。
 けれど、もう少しだけ我慢しなければ。あとほんのわずかで自分の運命を覆せる。レイラの奴隷として一生を終えるつもりなどない。ここから数歩で王国再建の道が開けるのだ。

 わずかに息を吸っただけでベアトリスは呼吸を止めた。
 腰を深く落としてから、体内の魔力を改めて活性化させ、渾身の力で跳躍する。
 最後の親衛隊員とレイラの頭上を飛び越えて、着地。すかさず振り返り、まだ背を向けているレイラの髪を掴む。
 雨に濡れているため手が滑りそうになるが、幸いにもしっかりと握り直すことができた。
 ベアトリスはその手を思いきり引いた。
 後ろから髪を強く引っ張られたレイラは、白い喉を晒して仰け反りながら後方に倒れ込んだ。

 ベアトリスはレイラの首に刃を添えた。
「下がりなさい!」
 周りの親衛隊を牽制すると、彼らはあからさまに困惑した。

 親衛隊の敵はベアトリスだけではない。勢い付いているカーライル兵も止めなくてはならない。
 どちらを優先すべきか。順当に考えれば司令官の救出が先だが、カーライル兵はすぐそこまで来ている。早く押し返さねば戦線が崩壊しかねない。
 優秀な指揮官であっても対処するのは困難な状況である上に、現在の親衛隊長は、直前に急遽任命された代理でしかない。
 レイラを押さえられて親衛隊が機能不全に陥るのも無理はなかった。

「…………」
 レイラは仰向けのまま無言を貫いていた。抵抗しようとさえしない。
 現状をどう感じているのか、本人にしか分かりようもない態度だった。

 ベアトリスは、レイラの首に剣を当てたまま、彼女の腕を捻って立ち上がらせた。
 レイラの格闘能力は皆無に等しいが、油断することなく彼女の動きを制限する。肩で息をしながらも、常に視線を移動させて、周囲への警戒も怠らない。

 目前のベリチュコフ兵と、近くのカーライル兵に向けて、ベアトリスは大声を発した。
「女王レイラは捕らえた! もはやベリチュコフ軍に戦う力はない! カーライル軍の勝利だ!」
 かつて戦姫として配下を鼓舞してきた凛々しい声が、様々な騒音にも負けず、周囲に浸透していった。

 ベアトリスの言葉を聞いて初めて事態を知った者たちは、敵味方を問わず一様に怪訝な表情を浮かべた。
 ベアトリスとレイラに顔を向け、自分たちの目で状況を確かめてから、ようやく各々の反応を示した。
 カーライル兵はさらに勢いを増し、ベリチュコフ兵は困惑を深めたのである。

 最前線に居たカーライル軍の若い指揮官は、突然の展開に戸惑いを露わにしながらも、自らの剣を上空に掲げた。
「レイラが捕縛されたぞ! 敵司令官が捕縛された!」
 ベアトリスの聞く限り、頼りなさそうな声だった。

「女王レイラ捕縛! レイラ捕縛!」
 若い指揮官の隣に居た年配の将校が彼に続いて叫んだ。
 通りのいい声だった。大きく、野太い。

 乱戦の最中でありながら、周囲に居る者は彼の言葉を聞き逃さなかった。
「レイラ捕縛! レイラ捕縛!」
 近くに居たカーライル兵が、同じ言葉を繰り返す。予めそうするように決められていたのか、隣の兵も、その隣の兵も、次々に倣う。

 この時になって、ベアトリスはようやく全身から力を緩めた。

――――

「レイラ様が、捕らえられた? 聞き間違いではないのか?」
 援軍として急行している最中だったヤコフ・サヴィン伯爵は、信じがたい報告を耳にすると、通信兵に確認を求めた。

 艦と艦の連絡手段のひとつに通信魔術が存在する。
 魔法陣から魔法陣へと声を送るこの魔術は、艦隊戦に欠かせない要素となっている。

 通信自体に支障が出ることは珍しくないが、通信内容がねじ曲がってしまうことは基本的にない。
 とはいえ、風雨に晒された艦内では、言葉を聞き違えることも有り得る。魔術は信用できても、人の耳を信用できる状況ではない。
 ゆえにヤコフは確認を求めたのだった。

 通信兵は悲痛な面持ちで言った。
「事が事ですから、すでに何度も確認しています。間違いありません。レイラ様は敵の手の中にあります」
「…………」
 冷静沈着な将校として知られるヤコフは、この時も大きな反応を見せないまま黙考に入った。

 軍神が捕縛されたことは驚きに値するが、レイラ女王には、すぐに油断するという欠点があった。
 そこに付け入られ、かつ、数度の不運に見舞われたのだとすれば、捕縛も有り得ない話ではないだろう。
 ヤコフはそう納得し、脳内で善後策を練り上げた。

 カーライル軍はこちらの包囲下にある。しかし、我が軍は総司令官を失っており、各艦は困惑しているだろう。
 まともに包囲殲滅戦を展開できるとは思えない。
 仮に可能なのだとしても、女王が敵に捕らえられている状況では、砲撃で敵艦を沈めてしまうことはできない。

 見せ掛けの砲撃でカーライル軍を追い詰めつつ、強行接舷して斬り込み隊を送り、人質として盾にされている女王を傷付けずに奪還する……。
 統制を欠いた今のベリチュコフ軍に成し得る作戦ではない。

 ヤコフは全面撤退を決断した。
 全軍の指揮を代理として掌握する権限などヤコフにはないが、撤退を促すのに命令を発する必要はなかった。

 各艦に向けてヤコフは通信を送った。
『北方から多数の艦隊が接近中。遠征中だったカーライル軍の主力艦隊と思われる。数はおよそ20』  むろん嘘だった。
 総司令官を捕らえられて元から動揺していた各艦長たちは、この偽報によって恐慌状態へと陥り、状況を確認する間も惜しんで敗走を始めた。

 無秩序に逃げていく味方の艦隊を眺めながら、ヤコフは思った。
 軍神レイラの手足として無敵を誇っていたベリチュコフ軍も、頭を失えばこんなものか。これを機に反転攻勢してくるであろう周辺諸国と、我が軍はこれから戦わねばならない。だというのに、この有様はどうか。
 王国の行方を案じずにはいられなかった。


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