水の星、世界を手に入れる男
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第一章 第二章 第三章
『水の星、世界を手に入れる男』
第05話 戦姫ベアトリス

 夕方。
 略奪を終えた女王レイラは、村を焼き払うよう兵に命じた。
 兵たちは家々に火を付けて回った。躊躇する者はほとんど居なかった。レイラ艦隊に所属している兵からすれば、いつもの作業に過ぎなかった。
 彼らの手慣れた動きに満足したレイラは、島民たちの悲鳴を背中に受けながら、停泊中の旗艦に戻った。

「少し濡れてしまったわ。拭いて頂戴」
 8人の姫に向かってレイラは言った。船室に入る直前に小雨が降り出したのだった。

 レイラの髪を姫たちは恐る恐る拭いていった。
「余計な雨ね。島民の反抗的な目が気に入らなかったから村を焼こうと思ったのに、これでは火の勢いが衰えてしまうじゃない。まあ、仕方ないわね。代わりにお前たちと遊ぶことにするわ。嬉しいでしょう?」
「…………」
 特定の姫に対して発した言葉ではなかったため、誰も返事をしなかった。

「私と居るのが退屈だからって、何も無視することはないじゃない。そんなに暇を持て余していると言うのなら、海で泳いでくるといいわ。この荒れ気味の波だと、気を抜いたらすぐに溺れてしまうでしょう。少なくとも退屈はしないはずよ。ただし、そのまま逃亡されると気分が悪いから、両手両足を鎖でひとつにさせてもらうけれど。ねえ、ベアトリス。良い考えだと思わない?」

 名指しされた戦姫はひれ伏した。
「レイラ様と一緒に居て退屈を感じることなど有り得ません」
「なかなか可愛いことを言うじゃない」
 レイラはベアトリスの頭に手を置いた。
 振り払ってしまいたい衝動をベアトリスは目を閉じてこらえた。

 船内が揺れ始めた。
 新たな略奪の場に向かって出航したようだった。

――――

 夜。
 レイラは船室の小窓から外の様子を窺った。
 雨足は激しさを増していた。雨粒が軍艦に叩き付けられている。
 波も荒い。航海中の艦内は、時折 大きな揺れに見舞われた。
 船外の視界は極めて悪く、隣の艦ですら、輪郭を掴める程度しか見えない。

 レイラは窓から目を離し、椅子に腰を下ろした。
 普段なら眠りについても良い時間ではあるが、雨音がうるさくて簡単には寝られそうにない。

 鞭を振るって気晴らしでもしようか。そう思い、傍らの姫たちに目を向けてみる。
 8人の中でもベアトリスは特にお気に入りの奴隷だった。
 痛みを与えても悲鳴を我慢するところが特に良かった。戦姫としての矜持を守ろうと必死になっている姿がレイラはたまらなく好きだった。

 もっとも、ベアトリスが苦痛を耐え抜いてこられたのは、手加減をされているからに過ぎない。
 神経に直接刺激を加えられれば、どれほど屈強な精神の持ち主であっても、無様に泣き叫ぶしかないのだ。
 戦姫ベアトリスも、たとえば歯の神経を刺激されれば、途端に絶叫を放つはず。
 誰であろうと耐えられはしない。否応なく思考が止まり、勝手に全身がのたうち、気が付いた時には、力の限り叫び声を上げている。そういうものなのだ。
 その時ベアトリスは、今までの虐待が生温かったことを悟り、絶望に暮れることとなるだろう。

「失礼します!」
 親衛隊長が勢い良く扉を開けた。
「こんな時間に私の部屋に入ってくるだなんて、どういうつもり?」
「も、申し訳ありません」
 不機嫌な気持ちをほんのわずかに覗かせるだけで親衛隊長は狼狽した。
「…………」
 中年男の恐縮する様を見せられたレイラは余計に苛立ちを募らせた。

 前任の親衛隊長は優秀だったが、何かと口うるさい男でもあった。ゆえにレイラは自らの手で斬り殺して黙らせた。
 後任には、自分に言いなりの者を選んだのだが、失敗だったかもしれない。
 無能であるだけならまだしも、卑屈な態度が癇に障る。美しい少女であれば可愛く思えるかもしれないが、40過ぎの中年男ではそれもない。
 レイラは思った。こいつこそ海で泳がせてやろうか。
 けれど、そんなことを口にすれば、親衛隊長は見苦しく命乞いを始めるに違いない。
 そうなれば、ますます不愉快な気分にさせられるだろう。

「消えなさい」
 レイラは吐き捨てるように言った。
「で、ですが、敵が……」
「敵?」
 なるべく見ないようにしていた親衛隊長の顔に、思わず目を向けてしまう。
「どういうこと? まさか、カーライル軍が来ているとでも?」
「はい」
「…………」
 レイラは不快感を忘れた。

「いかが致しましょう、女王陛下」
 自分の報告が重要事項であることが伝わったからなのか、親衛隊長は誇らしげな表情になった。
 普段ならこれだけでも斬首に充分な理由になるが、彼にとって幸いなことに、レイラの思考は別のところへ向かった。

「敵の数は?」
「分かりません。この雨ではなんとも」
 親衛隊長は視線を逸らしながら答えた。敵の兵力を掴めないのは自分のせいだと思っているのだった。

 むろん実際には彼の責任などではない。親衛隊の役目は女王の身を守ることであり、敵を捕捉分析することでは決してない。
 親衛隊長が責任を感じているのは、彼が自身の無能に気付いていないばかりか、有能であると思い込んでいるためであった。
 職域から外れたことであっても、もっと自分がしっかりしていれば、今ごろ敵軍の戦力を把握できていたかもしれない。身の程知らずにも親衛隊長はそのような考え方をする男だった。

 レイラは再び不快感を刺激された。
「……で、敵はどこまで迫っているの?」
「は、はい。敵艦の1隻が、我が方の第八艦と第九艦の間を突破し、こちらに向かっております」
「…………」
 なぜそれを最初に言わないのか。口を開こうとして、思いとどまる。
 この男には何を言っても無駄だ。報告を聞き終えたら早急に彼を始末しよう。
 レイラは密かに決めた。

 親衛隊長は、自らの命運が尽きたことを知ることなく話を続けた。
「敵の士気は高く、逆に我が軍は、奇襲を掛けられ浮き足立っております。周辺に散っている味方艦に救援の要請は出しましたが、雨のせいで到着が遅れるのは必至。ここは転進するべきかと」

「面白いわね。敵軍から逃げ回れと言うの? この私に」
「敵の数が分かりませんし……」
「もういいわ」
 レイラは親衛隊長から視線を外した。

 同感ね。確かに逃げる必要はないわ。
 レイラの判断に内心で同意している者が、ただひとりだけ船室内に居た。
 戦姫ベアトリスである。
 彼女は、他の姫たちと共に部屋の隅に座り込んでいながら、冷静に状況を分析していた。

 国内に残っているカーライル軍の数は限られているはず。奇襲を仕掛けてきた艦隊は、10隻にも届かないだろう。
 この海域に居る主力艦隊だけでも、軍神レイラならば楽に勝てる数だ。しかも、時間が経てば続々と援軍が来る状況。
 逃げ出すことなど考えられない。

 ベアトリスの見立てを肯定するかのようにレイラはうっすらと笑みを浮かべていた。

 レイラが何かを言い掛けた時、船内に轟音が鳴り響いた。同時に激しい揺れが起こり、その場に居る全員が平衡感覚を失った。
 姫たちが悲鳴を上げる。甲高い声が彼女ら自身を一層の恐慌状態に陥れた。

 幸いにも揺れはすぐに収まった。
 そのことに姫たちが気付いて悲鳴を止めるまで、若干の間が必要だった。

 唯一 悲鳴を上げなかった姫ベアトリスは、上体を起こして天井を見つめた。
 雨音に混じって、言い争っているような声が上から聞こえてくる。加えて、頻繁に鳴る木の軋む音。
 類推するに、カーライル軍の斬り込み隊が甲板に侵入しているのではないか。だとすると、先程の振動は艦の体当たりを食らったせいだろうか。
 魔術弾の直撃であった可能性も無くはないが、それよりも重い衝撃であったように思える。
「敵が乗り込んできたようね」
 誰にともなくレイラは言った。やはりベアトリスと同意見のようだった。

「カーライル軍もなかなかやるじゃないの。こちらの兵はもう迎撃に出ているでしょう。私も上に出るわ」
 レイラは命令したが、親衛隊長が答えることはなかった。
 先程まで直立していた親衛隊長は、振動の際に近くの壁に肩を強打して、激痛にうずくまっていた。

 レイラが彼に声を掛けるよりも早くベアトリスが動いた。寄り添うようにして親衛隊長に近付き、彼の鞘から剣を抜き取る。
 あまりに自然な動作であったため、誰もがその行動の意味をすぐには捉えられなかった。
 レイラでさえも同様だった。ベアトリスの意図をレイラが認識したのは、親衛隊長の首が切り裂かれてからのことである。

 姫たちは再び甲高い声を響かせた。
 その間にも血飛沫が船内を赤く染めていく。
 親衛隊長は驚きの表情を浮かべたまま瞳から光を無くしていった。

 ベアトリスは静かに剣の切っ先をレイラに向けた。
「動かないで」
 今までとは別人のような、凛とした声が通った。

「…………」
 この期に及んでもレイラは無表情だった。
 彼女の考えが読めないため、ベアトリスは、すべてを見透かされているような気がした。
 焦りなり驚きなりの感情を、ほんの少しでもレイラの顔から読み取ることができたなら、必要以上に恐れることもなかっただろうが、なにひとつ分からないのでは、嫌な想像ばかりが先に立つ。
 レイラは現状を予期した上で奥の手を用意しているのでは、と考えてしまう。
 あるいは、この程度の窮地など彼女からすれば大したことではないのだろうか。

 事の重大さをレイラが理解していないはずはない。
 普段なら、いくらレイラを人質にしたところであまり意味はない。これから続々と駆け付けてくるであろう親衛隊に、いずれは捕縛されてしまうだろう。
 だからこそ、戦場で武功を重ねたベアトリスであっても、拘束もなしに女王の側に置かれていたのだ。
 しかし今は甲板にカーライル軍が居る。
 戦力差を考えれば簡単に撃退できるだろうが、それは軍神レイラが陣頭指揮を執ったらの話だ。
 もしここでレイラが足止めを食らえば?  戦況は予測できなくなる。もしかしたら、ということも有り得なくはない。
 わずかな時間だけでもレイラをここに留めておくことには大きな意味があるだろう。
 居るはずの指揮官が突然 不在になるだけでも、軍が混乱するには充分な要素と成り得る。
 ましてや、ベリチュコフ軍の総司令官は女王レイラだ。
 戦争狂だの狂人だのと味方から恐れられてはいても、常勝の軍神が戦場で頼りにされていないはずはなく、兵に対する彼女の精神的影響力は、平凡な指揮官の比ではない。
 ゆえに、不測の事態でレイラが甲板に姿を現さなかった時の影響も、また大きなものになる。

 ベアトリスはさらに思考を進めた。
 もしカーライル軍が勝った場合、自分が悪い扱いを受けることはないだろう。
 滅亡前の祖国はカーライル王国と良好な関係を保っていたし、なにより、レイラ捕縛の功績は誰もが認めるところとなるはずだ。
 ならば、これをきっかけにして、カーライル軍の中枢に自分の席を置くことも可能ではないか。
 カーライル王国で足場を固め、いずれは祖国復興も……。

「っ!」
 思考が散漫になっていたベアトリスは、後ろから迫ってきたコーネリアス姫に不意を突かれた。
 足払いを掛けられ、背中から床に倒れ込む。
 ベアトリスが唖然としている間に、コーネリアス姫は剣を奪い取って、喉元に突き付けてきた。

 コーネリアス姫は大人しい深窓の姫君。そう思い込んでいたベアトリスは、一切の抵抗もできないまま制圧されてしまった。
 教育係か何かに武芸の手ほどきを受けていたらしく、コーネリアス姫の動きはまずまず洗練されていた。
 剣を奪い取られた以上、体術のみで形勢を逆転するのは難しい。

 ここで行動を起こしたのは軽率だったか、とベアトリスは今更ながらに思うが、後戻りはできない。
 いくらレイラに気に入られていようと、もはや自分が許されることはないだろう。
 生きるためには、丸腰であってもコーネリアス姫を突破し、レイラを捕らえるしかない。

「よくやったわ、コーネリアス。そのままベアトリスを牽制していなさい」
 レイラは悠々と船室を出て行く。

「待ちなさい!」
 反射的にレイラを追おうとしたが、コーネリアス姫が剣を握り直したのを見て、ベアトリスは身体の動きを止めた。

――――

 激しい雨が降る中、レイラは甲板に姿を現した。
 船上では、カーライル兵とベリチュコフ兵が入り乱れていた。
 カーライル軍はすでに船首側の甲板を制圧しており、そこに続々とカーライル兵が乗り移ってくる。
 逆に船尾側では、船室から出てきたベリチュコフ兵が次々と戦線に加わっていく。

 親衛隊に周りを固めさせた上でレイラは戦況を眺めた。
 なるほど、敵の士気は高い。運良くこの旗艦に乗り込めたため高揚しているのだろう。
 そこは良い。問題は別にある。奇襲による恐慌状態から こちらの兵が完全には抜け出せていないことだ。
 そのせいで動きが悪い。

 このような乱戦になってしまっては、指揮官の打てる手も限られてくる。
 せいぜい兵を鼓舞することくらいだろう。あとは成り行きに身を任せるしかない。普通ならば。

 レイラは思った。弱小のカーライル軍相手に切り札を使うのは不本意だけれど、そんなことも言っていられないか。まあ、肩慣らしにはちょうど良いかもしれないわ。
 冷たい雨に身を晒していながら、彼女の身体は熱くなっていった。

――――

「いけるぞ! 突き崩せ!」
 叫びつつデュークは自らも前へ出た。最前線で鍔迫り合いを演じている兵ふたりに飛び掛かり、敵兵の背中を斬り付ける。
 致命傷を負った敵兵は、何歩か後ずさってから、ゆっくりと崩れ落ちた。

 助けられた味方兵はデュークに目を向けようとしたが、別の敵兵に襲われ、そのまま斬り合いになった。
 デュークも新たな敵兵と向かい合う。

 相手は間を置かず斬り込んできた。
 敵の一撃を受け止めた剣が弾き飛ばされそうになり、デュークは慌てて指に力を入れた。
 背中を斬るだけならともかく、正面から剣を交えるとなると、先程のように簡単には行かない。

 すぐに、敵兵と剣を合わせての押し合いになった。腕力はわずかに向こうの方が上のようで、少しずつ押され始める。
 デュークは胆を冷やした。押され気味なのもまずいが、1対1で戦い続けているというのもまずい。

 混戦中にそんなことをしていては、他の敵に攻撃されても反応できない。デューク自身がそうやって敵兵を討ち取ったばかりだ。
 床に倒れ伏した敵兵の姿が視界の端に入った。数秒後に自分も同じ最期を迎えたとしても、なんら不思議ではない。

 艦長の身を守るための護衛は周りに数人 居るが、彼らとて、乱戦では目の前の敵を排除せねばならず、確実に役目を果たせる状況にはなかった。
 大貴族出身の艦長であろうと、敵艦に乗り込んだからには、自分の身は自分で守らねばならないのだ。

 敵兵に押し切られる直前、デュークは相手の腹に蹴りを入れた。
 敵兵は後ろに倒れ込んだが、自分まで反動で転倒しそうになった。
 なんとか踏ん張り、剣を構え直して、敵兵の胸を切り裂く。

 敵は悲鳴を上げて剣を落とした。
 だがデュークは手応えを感じていなかった。敵兵の傷は浅いに違いない。もう一度 剣を振るう。

 敵兵は、鮮血を撒き散らしながら仰け反った。
 相手が動かなくなったのを確認してデュークは全身から力を抜いた。
 その途端、乱戦中であることを思い出し、狼狽えながら周囲を見回す。自分を標的にしている敵は居ないようだった。
 思い返してみると、鍔迫り合いをしている最中に、敵の横槍を誰かが防いでくれたような気がするが、目の前の相手に対処することに精一杯だったため、そのあたりの記憶は曖昧だった。

「デューク少将、前に出過ぎです!」
 注意を促したのはネイサン参謀長だった。いつの間にか近くに居たらしい。
「僕なら大丈夫だ」
 デュークは大声で返したつもりだったが、あまり声が出なかった。
 呼吸が乱れていることをようやく自覚する。
 意識したせいか、余計に息苦しさが増してきた。

 デュークを支えているのは責任感だけだった。
 エルバートが駆け付けてくるまで甲板上の橋頭堡を確保する。最低でもその程度の仕事は果たしたい。
 その一心でデュークは再び声を上げる。
「僕なら大丈夫だ! 少しでも引いたら一気に押される。ここは攻め続けるしかないんだ、参謀長!」
「…………」
 ネイサンは異を唱えなかった。黙って従うことにしたようだ。感心しているようにも呆れているようにも見える。

 ふたりに向かって、敵兵のひとりが突っ込んできた。
 ネイサンは敵兵を一太刀で斬り伏せた。

 その間、デュークは棒立ちで船尾を見ていた。
 なぜこの非常時に よそ見をしてしまったのか、自分でも良く分からなかった。まるで視線を吸い寄せられたかのようだった。

 船尾には、十数人の敵兵を隔てた先に、軽装の女性が居た。
 戦場の中にあって、彼女だけが武器を持っておらず、ベリチュコフ兵に守られている。

 デュークに面識はないが、事前の情報とも併せて考えれば、彼女が誰であるかは一目瞭然だった。
 軍神レイラ・ベリチュコフ。
 なんとも美麗な外見だった。戦闘中であることも忘れてデュークは見惚れた。
 本当にあれが戦争狂だの狂人だのと言われている女王なのか、疑いたくなる。

 その一方で、妙に納得もしてしまう。
 旗艦を急襲され、甲板の半分近くを制圧されても、彼女の表情には全く焦りが見られない。どころか、まるで他人事のように冷徹な瞳をしている。
 なるほどあれが無敵を誇る軍神というものか。思わず感心する。

 レイラはまだ船室から出てきたばかりらしく、周囲に目を走らせていた。現状の把握に努めているのだろう。
 やはり恐ろしい相手だ。デュークは改めてそう思う。
 艦内に閉じ篭もったり艦から脱出したりしようとはせず、あくまでこちらを撃破するつもりらしい。
 どんな時でも攻撃優先という姿勢は、エルバートが好みそうではあるが……。

――――

 喉を切り裂かれた親衛隊長の血の臭いが、船室内に充満していた。恐怖に怯えた姫たちの失禁による汚臭も漂っている。
 そんな中で、剣を構えたコーネリアスと丸腰のベアトリスが向かい合っていた。

 ベアトリスは焦りを隠せない。
 このまま放っておいたら外の戦況は悪くなるばかりだろう。いずれカーライル軍は全滅する。
 どころか、親衛隊がここに駆け付けてきたら、その時点ですべてが終わってしまう。

 おそらく無駄だとは思いながらも、ベアトリスは説得を試みることにした。
「レイラを助けても良いことはありません。あの無慈悲な女王が恩を感じるだなんて、そんなことを考えているのですか? だとしたら楽観的にも程があります。レイラが生きている限り、私たちが生き長らえることはできないのです」

「かもしれないわね」
 そう言ってコーネリアス姫は自嘲した。
「愚かなことをしているのは分かっているわ、ベアトリス。でもこうするより他はないの」
「奇襲が成功してレイラがここで死ねば、彼女の機嫌を窺う必要もなくなるでしょう。そうすれば――」
「いくら奇襲されたと言っても、兵力に勝っているベリチュコフ軍が負けることは有り得ないわ」
「ベリチュコフ軍は優勢ですけれど、レイラが指揮できなければ、勝敗が確実なものとは言えないでしょう。違いますか?」
「だとしても、ベリチュコフ軍の優位は変わらないはずよ」
「…………」

 どうやらコーネリアス姫は、彼女なりの考えを持っているようだ。
 こうなると説得は難しいと判断するしかない。状況をある程度 把握しているのなら、これ以上聞く耳は持つまい。

「分かりました……」
 なるべく弱々しく聞こえるようにベアトリスは言った。
「確かにコーネリアスの言う通りです。私も潔く諦めて、レイラ女王に許しを乞うことにしましょう」
「…………。本当に?」
「ええ。どうやらあなたは武術の鍛錬をしているようです。何の武器も持たない今の私では敵わないでしょう。剣を構えているあなたと正面から素手で戦うほど私は愚かではありません」
「そう」
 コーネリアスは剣を下ろした。

 いきなり態度を改めたベアトリスを疑いもせず、あっさりと信じてしまったらしい。
 コーネリアス姫は、護身術や軍事学だけでなく様々な教育を受けてきたのだろうが、人は嘘をつくのだという現実は教わっていないようだった。
 普通なら身をもって学ぶことだが、深窓の姫君にはその機会すらなかったのだ。
 利害の渦巻く社交界で揉まれていれば話も違っただろうに。

 ベアトリスからすれば悪足掻きの演技でしかなかったが、思いのほか上手くいった。
「けれど、コーネリアス。レイラ女王が許してくれるかどうか、私にはそこが気掛かりでなりません」
「大丈夫。あなたは気に入られているのだから。命だけは助けてもらえるよう、私からも言ってあげるわ。私の功績を考えれば、女王も無下にはできないはずよ」

 純粋無垢なコーネリアスはベアトリスに気まで遣い始めた。
 これほどのお人好しを騙すことに戦姫は痛切を感じたが、躊躇するわけはいかない。
 コーネリアスの言う通りに事が進むはずはないのだ。どんなことをしても、今ここでレイラを倒さなければならない。

 コーネリアスが完全に油断しているのを確認してから、ベアトリスは彼女に飛び掛かった。
「なっ!?」
 下ろしていた剣をコーネリアスは反射的に振り上げたが、意表を突かれているためにまるで腰が入っていなかった。
 訳も分からないまま振られた剣などに当たるベアトリスではない。難無く躱し、コーネリアスを組み伏せる。

 剣はコーネリアスの手を離れ、部屋の隅に転がった。
 ベアトリスは剣を拾おうとして、コーネリアスの拘束を緩めた。
 その隙を突いてコーネリアスはベアトリスを振り払う。
 ふたりは這い蹲りながら剣に飛び付こうとした。

 事ここに至って、ふたりの間に条件の差はなくなった。
 コーネリアス姫がひとりで戦姫を足止めできていたのは、武器の有無に違いがあったからこそだった。
 それが今はない。ふたりとも丸腰で、剣を手に取ろうとしている。距離もさほど変わらない。どちらも4・5歩で届く。対等な条件。
 ならば勝負は見えている。

 コーネリアス姫がどれほど武術の訓練を積んでいようとも、所詮、お姫様への教育の一環でしかない。
 実際に軍艦を率いて戦場を渡り歩いてきたベアトリスとは、育ってきた環境がまるで違う。

 身体能力の差も歴然としていた。
 肉体の強度は、体内の魔力による影響を大きく受ける。
 先天的に優れた魔力を持つベアトリスは、自分より速く動ける者に出会ったことがなかった。

 培ってきた経験も、生まれ持った才能も、ベアトリスに比べれば、コーネリアスのそれは児戯にも等しい。

 ベアトリスは、床の上を滑るような動きで剣を拾い上げた。
 振り向きざまに剣を突き出す。

 意識しての行為ではなかった。
 身体に染み付いた武人としての反応が、間近まで迫っていた存在に対して作用したのだ。

 コーネリアス姫は中腰の姿勢で止まっていた。腹部を剣で貫かれていては動けるはずもない。
 最初は呆然としていたコーネリアス姫だが、その表情は少しずつ歪んでいった。
 じわじわと痛みが押し寄せているのだ。激痛が訪れるまで、そう時間は掛からないだろう。

 ベアトリスは目を瞑り、剣を引き抜いた。
 次に目を開けた時、コーネリアス姫はうつ伏せに倒れていた。彼女を中心にした血溜まりが、今もなお広がっている。

「…………」
 掛ける言葉をベアトリスは見付けられなかった。
 お互いの信じる選択肢に従った結果だ、とベアトリスは思っているが、コーネリアス姫もそう思っているとは限らない。
 ゆえにベアトリスは無言で船室を出て行こうとして、彼女に背を向けた。

「ま、待って」
 コーネリアスの力無い懇願に足を止めたベアトリスは、船室の扉に手を掛けたまま振り返った。

「構うことないわ。行きなさい、ベアトリス」
 言ったのは侯爵令嬢だった。
 コーネリアスと懇意にしていながらも彼女を見捨て、最終的にはレイラから死の宣告を受けた貴族の姫君。
 明日には処刑される運命にあるのだから、ベアトリスにすべてを賭けようとするのも道理ではある。

「行かないで、お願い」
 コーネリアスは、倒れ込んだまま顔だけを上げた。
 瀕死の彼女に向かって侯爵令嬢は言った。
「黙りなさい」
 底冷えのする声だった。
「レイラに恩を売って自分だけ助かるつもりなのでしょう、コーネリアス」
「わ、私は、あなたの助命を乞うために――」
「言い訳をしないで。見苦しい」
 令嬢は苛立たしげにコーネリアスを睨み付けた。
 今にも唾を吐きかけそうだ。見ている者にそう思わせるほど嫌悪感を剥き出しにしている。

 蔑みの視線に耐えられずコーネリアス姫が目を伏せると、侯爵令嬢はベアトリスに向き直った。
「早く行って。私たちが助かる道は他にないのよ。レイラを殺して!」
「…………」
 ベアトリスは扉を開けた。侯爵令嬢の声に押されたわけではないが、結果的には彼女の言葉通りの行動となった。


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